2008年12月17日

受動と「被」「让」「叫」の用法(その3)

さて特殊な例として、動詞の前にその動作の主体となる者が示されることもあります。次の例をご覧ください。
 困难在他面前一个一个地被克服了。(彼の前で困難は一つずつ克服されていった)
 この文章の中で実際に問題を克服するのは「他(彼)」です。また主語となっている「困難」にとって克服されてしまうことはありがたくないことですから、この文には「被」が使用されています。

 「被+原因者+動詞」という公式の動詞の後にさらに目的語が入れられることもあります。これにはいくつかの理由とパターンがあります。

(1) 動詞が二つの目的語を取れる動詞である場合。つまり「(間接目的語)に、(直接目的語)をあげる」という構文を構成できる動詞。
能動文での直接目的語が主語になる場合。
大会授予他一枚金质奖章 → 他被大会授予一枚金质。(彼は大会から金メダルを贈られた)
我送给小李那枝笔 → 那枝笔被我送给小李了。(あのペンは、私が李君にやってしまった)
後の方の文章を、前の能動文である「我送给小李那枝笔(私は李君にあのペンをあげた)」と比較してみましょう。能動文は中立・中性の文章で、ペンを上げたのが良かったのか悪かったのかは全く示されていません。ところが「被」を使った受動文では明らかに、ペンを上げてしまったことが悪いこと、つまりそうすべきではなかったこと、という意味になっています。

(2) 「把X当Y」のタイプの文章が受動文になる場合。この場合、Yが目的語の位置に留まり、Xが「被」の前に出て主語となる。
年轻的赵永进把老主任当作自己的老师 → 老主任被年轻的赵永进当作自己的老师(ベテランの主任は、若い趙永進にとってまさに先生だった。直訳:ベテラン主任は、若い趙永進から自分の教師とみなされていた)
人们把这种字称为形声字 → 这种字被人们称为形声字(この種の文字は「形声文字」と呼ばれる。直訳:この種の文字は人々によって「形声文字」と呼ばれる。

(3) 文の最初に場所を表す語句が入る場合。
大门上被人上了锁 (玄関には鍵がかけられてしまった)
奴隶的背上被烙上了船的名字 (奴隷の背中には、船名の烙印が押された)
窗户被工人们刷上了油漆 (職人は窓にまでペンキを塗ってしまった。直訳:窓は職人たちによってペンキが塗られてしまった。)

(4) 場所を表す語句が動詞の目的語となる場合。
所有的桌椅都被我们搬到新教室里去了 (机や椅子は、みんな新教室に運んでしまったよ。直訳:机や椅子は、我々によって新教室に運ばれてしまった。)
那几具尸体已被扔进大海里 (あの数体の死体は海に投棄されてしまった)

(5) 手段となる語句が動詞の目的語となり、その行為を受ける対象が主語となる場合。
箱子被他捆上了绳子 (彼は縄で箱をくくった。直訳:箱は彼によって縄でくくられた)
蜻蜓被系着细线 (トンボが糸に引っ掛かっている)
我们学校的一个学生被公安局铐起手铐,给抓走了 (うちの学校の生徒が警察に手錠をかけられて、連れて行かれた)

(6) 動詞の後の目的語が全文の主語に対して従属関係にある場合。
刘明新在睡梦中被人家捆住了手和脚 (劉明新は、眠っている間に手と足を縛られてしまった)
小周那年被山上滚下来的石头打伤了腿 (あの年、周君は山から転げ落ちてきた石に当たって足を怪我した)
阿Q糊里糊涂地被杀了头 (阿Qは訳もわからないまま、首を切られてしまった)
上記の文では、手と足は当然劉明新の手足、足は周君の足、首は阿Qの首であることが明らからです。次のような文章もこの種類に属します。
你被地主害死了爹,我被地主害死了娘 (君は地主に父を殺され、僕は地主に母を殺された)
この文は、
你的爹被地主害死,我的娘被地主害死 
と言い換えることが可能ですが、上の文では、不幸に遭ったのは君と僕、下の文では、不幸に遭ったのがそれぞれの父と母と、強調する対象が異なってきます。

(7) 動詞の後に数量を表す語が置かれる場合。
水果被批发部卖了3000箱 (果物は卸売部によって3000箱売られた)
刚才无烟煤被卡车运走了5顿 (5トンの無煙炭はさきほど、トラックが運び去ってしまったよ)
政治犯被该国的新政府释放了一批 (一群の政治犯が、その国の新政府によって釈放された)

通常の文章では、「被害者」となるのは文章の最初に主語として出てくるのが普通ですが、まれなケースとして「被害者」が文章の最後に置かれることもあります。
 到了年关,又被财主逼死了几个人。(年末になって、またもや大金持ちにいびり殺された者が何人か出てきた)
被他这一句话害死了两条生命。(彼のこの言葉によって二つの命が奪われた)

 「被」の後に原因者として置かれるのは通常は人や代名詞、あるいは名詞であることが多いですが、それ以外の要素、つまり文章や状態を表す語が置かれることもあります。
 这些日子,他们三个被唱卡拉OK迷住了。(最近あの三人はカラオケに夢中だ:直訳:カラオケを歌うことに惑わされてしまっている)
他俩的婚事被参军上前线耽搁了。(二人の結婚は入隊、前線への出陣によって延期となった:直訳:二人の結婚は入隊して前線に行くことにより妨げられた)
她全身被悔恨、羞愧、痛苦、恐惧所控制。(彼女は悔恨の情、羞恥心、苦しみ、恐れに完全にとらわれてしまった)


2008年11月18日

身の程をわきまえる話

二回にわたって受動や「被」の用法についてお話してきましたが、難しい話が続いて、肩がこりました。今回はちょっとお休みして、怠けさせてください。
言葉を勉強しているからには、語彙を増やしたいと思うのは当然です。また、習った言葉を早く使ってみたいと思うのも人の常と言えましょう。
・・・・・・
昔あるところに、中国語を熱心に勉強している日本人がおりました。
中国語の響きや発音が大好きで、一生懸命、一生懸命覚えました。
「四文字熟語」が特に好きになりました。日本語にもなっている「故事成語」が今でも中国で普通に使われていると聞いて、嬉しくなり、たくさん、たくさん覚えました。「故事成語辞典」も買って来て、一生懸命勉強しました。
中国語が上手になったので、会社でもその能力が認められるようになりました。ある時、社長さんから、「君は中国語が上手らしいじゃないか。中国支社に時々出張して、あちらの仕事を手伝ってくれないか」と言われるまでになりました。嬉しくなって、家に帰ってから奥さんと子供にそれを言うと、二人とも喜んでくれました。
二ヶ月に一度、中国に出張することになりました。仕事は忙しいですが、中国語が使えて中国人と話ができるので、仕事にも張り合いがありました。中国人との会話の中で、習った四文字熟語をたくさん使うように心がけました。中国人から、「あなたの中国語は上手ですね(你汉语说得很好!)」とか、「すごいですね!四文字熟語が使えるんですね!(你很厉害!竟然会用成语阿!)」と言われたので、ますます嬉しくなりました。会社の中でも、「四文字熟語さん(成语先生)」というあだ名をもらうまでにもなりました。
日本に帰ってからも、次の出張が楽しみで、それまでの間、一生懸命勉強しました。次の出張からは、毎朝、朝礼の訓示も中国語で話すようにしようと決心して、毎日、その話の原稿作りもがんばって夜遅くまでやりました。
小学校2年生の息子がやって来て、尋ねました。「パパ、こんなに遅くまで、何の勉強をしているの?」「来月、また中国に行くから、その出張のためのお話の準備をしているんだよ」「すごいなあ。ねえ、パパ、これは何の本?」「これかい?これは『故事成語辞典』と言って、昔の中国の偉い人が作った言葉の辞典だよ。昔の人が作った言葉を、中国の人は、今でも使っていて、パパがこれを使うと喜んでくれるんだ。それにこういう言葉を使うとカッコいいだろう」「パパって勉強家なんだね。僕も見習わなくちゃ」「もう遅いから寝なさい」「うん、お休みなさい」
次の出張の時からは、毎朝の訓示も中国語でするようにしました。中国人の社員の人は、みんな目を輝かせて聞いてくれました。3回目くらいからは、話の途中で、みんなうなずいたり、互いに顔を見合わせたりしているので、「よしよし、俺の話は、みんなに受けているんだな」と思いました。指を折って何かを数えている人もいたので、「要点をまとめて数えてくれているんだな」と嬉しくなりました。
話が終わると、中国人の人たちは、互いに何か話していました。
“那个日本伙子老爱用成语,诶,今天用了几次啊?”
“三次吧?”“不,不,是四次啊,我都算过呢”
“他用成语的时候的那得意的样子,很搞笑啊!”
“有的用法,用错还是怎样,我都听不懂意思呢”
“小声点!他听得到啊”
などと言い合っていましたが、聞き取りがあまり得意ではないので、何を言っているのか全然分かりませんでした。とにかく、熱烈な反応があるのは、いいことだ、と思いました。

日本に帰ってからの、ある晩のことです。
奥さんが、息子の作文を見せながら言いました。「あなた、最近あの子が、こんな作文を書いたの。先生から、『悪いことではありませんが、ちょっと注意するといいかもしれませんね』なんて言われたの。あなた、どう思う?」
手にとって見ると、なかなかきれいな字で書いてある作文で、父親として誇りに思いました。内容は次の通りでした。
『運動会    二年一組  すずきはじめ
きのうは、運動会でした。50メートル競走にはじしんがあるので、ぜったい勝ちたいと思っていました。でも、刎頸の交わりの二組のたけし君や、四組のさとし君も、すごくはやいので、別のグループになればいいなと思っていたのに、同じグループになって呉越同舟でした。結果は、さとし君が一番で、たけし君が二番、そしてぼくが三番でしたが、差はほんの少しで、五十歩百歩でした。来年は、捲土重来したいと思います。』
先生からの評価が赤ペンで記されていました。
「むずかしいことばをよく調べましたね。でも、もっと子供らしい、やさしいことばで書いた方がいいよ。先生は、はじめ君が自分のことばで書いた作文の方が好きだな。漢字のむずかしいことばは、中学生くらいになって使った方がいいと思うよ。今は、はじめ君の知っていることばをできるだけ使って、思ったことをそのまま書いた方が、はじめ君らしいし、クラスのみんなも、はじめ君の作文を読んでおもしろいと感じるよ。次からがんばろう。」
【このドラマはフィクションであり、登場する人物や団体は全て架空のものです】

2008年10月16日

受動と「被」「让」「叫」の用法(その2)

基本的に言って、中国語の「被」が使われるのは、主語が「被害を受けた」「自分の意図と反する目にあった」というような不快または非自発的な状態を表す時です。ですから「刚才说的话被他听见了」は、さっき話した言葉(内容)が、本当は聞かれたくなかったのに彼に「聞かれてしまった」という意味になり、「他听见了刚才说的话(彼はさっき話した言葉を聞いた)」という中立・中性の(つまり、良い意味か悪い意味か文そのものからはわからない)文と全く同じ意味ではなくなります。先回、「被」を使った受動の文章をあまり乱発するな、という話をしましたが、このことからも注意が十分に必要であることがお分かりでしょう。

 さて同様に、「小孩被父亲打了一顿(子供は父親にたたかれた)」とは言えますが、「小孩被父亲赏了十块钱(子供は父親から十元の褒美をもらった)」とは言えません。「老张被人毒死了(張さんは毒殺された)」は大丈夫ですが、「老李被人医好了(李さんは治療を受けて良くなった)」は少し違和感がある文章です。

 しかしながら受動がしばしば使われる西欧語の影響を受け、上記のような原則は次第に失われ、下記のような使用例も増えています。

这次他被评了一等奖。(今回彼が一等賞に選ばれた)
他被选为人民代表。(彼は人民代表に選ばれた)
他被培养成为一个优秀党员。(彼は優秀な党員となるよう育成された)

 とは言うものの、これらの文章はまだまだぎこちなくこなれていないという感が否めません。上記のような文が現れるのは書き言葉や翻訳調の文章に多く、話し言葉ではもっと自然な中国語として次のような表現が使われます。

这次他评上了一等奖。
他当选为人民代表。
他得到培养,成为一个优秀党员。

翻訳文章の中で「被」が多用され、従来の伝統が失われつつあるというこの傾向は、中国大陸に強いように感じます。香港や台湾では翻訳文章の中でも「被」が乱発されることは少なく、「被」を多用した文章は稚拙な文章とみなされる傾向にあります。これは、香港や台湾では、過去50-60年の間に外国語から中国語への翻訳が頻繁になされ、翻訳者も多く、また読み手の文章に対する要求も高くなっているため、洗練された文章が一般的になっているためだと推測されます。

  さて先回の内容も含めて、ここまでに重要な二つのポイントが出てきました。
(1) 受動はできるだけ能動に直せ。
(2) 「被」は“被害者的”な使用法がふさわしい。多用・乱発するな。

ついでですが、この(2)を念頭に置いて、下記の例文をご覧ください。ほとんどが「被害者的」な文章であることに気づかれるでしょう。

 ではここから「被」のさまざまな用法や特徴について調べてみましょう。

 標準的な用法では、「被」の後に行為の原因または主体となる名詞を置き、その後に動詞が来ます。

农民被地主打了一顿。(農民は地主に殴られた)
军官也被我们俘虏了。(将校も我々の捕虜となった)
尘土被狂风吹起。(強い風に砂塵が煽られる)
大驴子还是被小老虎吃掉了。(大きなロバが若いトラに食べられてしまった)
这个秘密又被人发现了。(この秘密はばれてしまった)

時には動詞の前に「给」が置かれることがあります。これは北方の話し言葉に多くみられる習慣です。

我的自行车被小明给骑走了。(僕の自転車、明ちゃんに乗って行かれちゃった)
你们真是被什么给弄迷糊了。(あなた方、一体何に惑わされたの)
孩子被你给惯得越来越不听话了。(子供はあなたに甘やかされて、ますます言うことを聞かなくなった)
据说小时候被驴给咬了一口。(聞いた話によると、小さい頃にロバに噛まれたらしい)

 書き言葉に多くみられる現象ですが、動詞の前に「所」が置かれることがよくあります。

他不被金钱所惑。(彼は金銭には惑わされない)
她怕军官所俘,自刎而死。
若干住人的地区反而被沙漠所吞没。
我被他谈话时的姿态所迷惑,竟然和他一聊就是半天。
我时常会被一种感情、一种思想、一种事件所袭击。

 このような「所」が使われる条件としては、まず動詞が一文字動詞であることがあげられます。これは文章を安定されるためにどうしても必要となります。ですから「被」が使われる受動文の後に一文字動詞が使われる場合99%「所」が使われると見て間違いないでしょう。(上記の最初の二例を参照)二文字動詞である場合は、「所」は入れても入れなくても大丈夫です。その時の気分で決定されます。

 「被」は直接、動詞の前に置かれることもあります。この場合は原因または動作の主体となる人や事物をあえて述べません。前後関係からその原因者が明らかである場合もあれば、特に述べる必要もない、あるいは何か特殊な理由でそれをあえて述べたがらないのかも知れません。次のいくつかの例をご覧ください。

我们被冲散了。(打撃を受けて我々は皆敗退した)
小船被抬得很高。(小舟は高く持ち上げられた)
敌人的油库被炸毁了。(敵のオイルタンクは爆破された)
全村的人都被赶到场上。(村人は全員そこに集まるように指示された)
突然,办公室的门“哐当”一声被撞开了。(突然、事務所のドアはガタンと押し開けられた) 

このシリーズはまだまだ続きます。次回をお楽しみに。
 

2008年09月19日

受動と「被」「让」「叫」の用法(その1)

 ある語学書によれば、中国語には元々、文法的な意味での「受動」はなかったそうです。近代になって西洋語と接するようになり、翻訳なども多くなされるようになった結果、受動を正式に表す前置詞(介词)「被」が登場するようになった、とあります。しかしながら、いや、そんなことはない、古代や中世のこれこれという文書にれっきとした受動の例があるではないか、という反論もでています。この論議は、受動とは何ぞや、とか、形態の上での受動と意味上の受動、というこれまた難しい論議にまで発展しているのですが、この辺もまた言語学者や文法論者に任せることにして、今回のお話を続けることにしましょう。

 私の独断と偏見に基づいた観察によれば、確かに、中国語は日本語と比べてはるかに「受動」が少ない言語です。日本人の中国語学習者にも是非この点は覚えておいていただきたいと思います。

 初級の学習者は、日本語の受動で表される表現をできるだけ能動文に置き換えて中国語に直すようにすることをお薦めします。その方が一層、中国語らしい表現となり、中国人にも理解されやすい文章となるからです。

 「あの人はみんなから嫌われている」→ 「大家都讨厌他(みんながはあの人のことを嫌っている)」
 この文章をほとんどの日本人学習者は「他被大家讨厌」と訳したがります。これは間違いではありませんし、理解されないわけではありません。ところがちょっと不自然な表現で、普通、中国人はこういう言い方をしません。この例は極度に文章を簡略化した例文なので、多少不自然でも理解されることはされますが、実際に通常の生活やコミュニケーションで用いられる文章では形容詞や副詞が前後に付いたりして、文章は一層複雑になっているはずです。それをぎこちない「被」を入れた不自然な文章にしてしまうと、中国人にとっては何がなんだかわからなくなってしまいます。例えば次の例を見てみましょう。

 「あの人は会社のあの課のみんなから次第に嫌われつつある」
これを「他被公司那一课的大家慢慢不喜欢」などとやると、変な中国語であるだけでなく、絶対に理解されないこと請け合いです。やはりここは主語を入れ替えて、「公司他那一课的人都开始不喜欢他」とするとわかりやすくなります。

 日本語で受動となる文章を能動に置き換える際には、自分で適当な主語を補う必要もあります。皆さんが英語を勉強した時に、「彼は・・・だと言われている/噂されている」というような日本語の文章を、英語では「They say that…..」と言える、と習ったことを覚えている方も少なくないでしょう。私もこれを習いたての頃は、英語の「They」には便利な用法があるんだな、と感じたのを記憶しています。

 さてこれに似た用法で使えるのが中国語の「人」「人家」です。後者は口語的な表現です。
 「彼は最近大もうけしたと噂されている」は「他被说…..」などとやらないで「人家说他最近赚大钱」と訳すと、すっきりすんなり理解されます。

 これは受動を使うな、とか使えない、という意味ではありません。当然ならが「被」が使われる受動の文章には、能動では表せないような微妙なニュアンスがあります。これは中級以上の方々に次第に学んでいただきたい用法です。

ですから、「日本人はやたらに受動の文章を乱発しないように」という初歩的な原則を念頭に置いて、次回から「被」「让」「叫」の用法についてご説明したいと思います。お楽しみに。

2008年08月12日

これは中国語で何と言うの?―――正しい尋ね方の話

「みえる」って中国語で何て言うの?と聞かれたら読者の皆さんは何と答えますか?

この質問をされて、とっさに「看得到」だよ、と答えた人がいます。質問者はこの「解答」をそのまま自分の使おうとしていた文章に当てはめて、なんと「因为客人看得到,所以必须回家作饭」と言ったのです。これが意味をなさない中国語であることは言うまでもありません。聞き手の言わんとしていた「みえる」はお客さんが「いらっしゃる」「おいでになる」「来られる」という意味での「みえる」だったのです。

ではもう一歩進めた質問。
「テレビが見える」って中国語で何て言うの?
さあ、これはどうでしょうか。
機械的に「看的到电视・・・」でしょうか?「电视机」とすべきでしょうか?

ここまで来て、注意深い人は、さて「テレビが見える」と言っても、具体的に何のことを指しているのだろう、と考え始めます。
「こんな砂漠の中でもテレビが見えるんだ!!」という風に、テレビ電波が受信できて番組が見られることを言うのであれば「这么偏远的沙漠中,没想到还能看到电视节目!」とでも表現できるでしょう。

もしかしたら問題になっているのは画像の質のことなのかも知れません。つまり「アンテナをつけたら、テレビがはっきり見えるようになった。」もしそうなら「装了天线,电视画面就清楚多了」と、「看」を使わない方が適当な場合もあります。

「この部屋は真っ暗だなあ。おや、あそこにテレビが見えるぞ。」と言うように、見えるのは番組でも画面でもなく、テレビ受像機そのものの事なのかも知れません。この場合も必ずしも「看」を使う必要がなく、「哦,那里有台电视机」で済ませることができます。言うまでもなく「房间黑漆漆,只看到一台电视机」「看」を使ってくださっても結構です。

私は「○○○」って中国語で何て言うの?と聞かれた際には、もう少し具体的に説明してもらうことにしています。また具体的にどんなコンテクスト(文脈)で、どんな目的を持ってその語や文を使おうとしているかも説明してもらいます。そうでないと「お客様がみえる」みたいなとんちんかんな答えを出してしまうことがあるからです。

こんなこともありました。
「一方的な話」というのは「片面的话」でいいのか、と尋ねられました。一瞬、「ええ、いいんじゃないですか」と答えそうになりましたが、上記の「お客様がみえる」のような苦い経験があったので、慎重になって、どんなコンテクストと目的で使おうとしているのか詳しく問いただしてみました。質問者が言わんとしていたのは、営業担当者たちを訓練するための訓話の中で、一部の営業員はお客様の言うことに全く耳を傾けないで、自社の商品のことを「一方的に」話して聞かせるだけだが、そういう営業方法はだめだ、という内容だったのです。この場合には「片面的话」では全く意味が通じなくなってしまいます。「片面的话」というのは、ある問題に関して賛否両論ある場合、公正にどちらの意見も聞かないで、「一面」だけの「片寄った」話だけを聞く、というような場合に使われる言葉だからです。
質問者が言わんとしていた「一方的な話」というのは「相手の言うことも聞かずに、あるいは相手に話す機会も与えず、まくしたてること」だったのです。このような場合に使える言い方や表現としては
「不给别人讲话的机会,一个人不停地讲(相手に話す機会も与えず、ずっと話続ける)」「不留意对方的反应,光讲自己的商品(相手の反応などお構いなく、自分の商品のことだけを話す)」
「不体谅别人的感受,只讲自己的事(相手の感じ方などを汲み取らないで、自分の事だけを話す)」
などがあると伝えました。またこの話を発展させるためには、「思いやり」とか「相手の言うことに耳を傾ける」というような話を前後に持って来て言いたい事を強化する必要があることも伝えました。

皆さんが質問者である場合は、単にある単語や一文を「中国語でどういうの?」と聞くのではなく、できるだけ具体的に使用する意図や文脈も伝えるようにしましょう。
また皆さんが中国語の後輩から同様の質問を受けた時に、早とちりしてすぐに答えを出したりせず、慎重にコンテクストや目的、さらには言葉の重みや相手に与える印象なども考えながら質問者と共に考えてゆくならば、互いに勉強になると思います。


2008年07月15日

面子の話

Q:中国人の面子についてはいろいろ言われていますが、いまだによく分かりません。これだけは絶対にしてはいけないとか、こうしたら喜ぶとか、もしあれば教えてください。
A:最近は中国ブームで 、「中国人の面子」を題材にした本や論評も多数出ていますし、インターネットで「面子」や「中国人+面子」などを検索してもありとあらゆる解説や経験談のようなものが見つかりますので、ここで改めて書くほどのことはないと思います。
しかしながら、正直申し上げると、そのような解説や論評には何となく違和感を持たざるを得ません。どうも、「やっぱり日本人の方が優れている」みたいな優越感とか「中国人は、どうしようもない民族だ。だから困る。」のような偏見から出ているように思えて仕方がないのです。私は、中国語や中国人とお付き合いさせてもらって26年になりますが、結論から言わせてもらうと、どの国民でも面子やプライドを重んじる気持ちや、頑固でかたくなな欠点があり、その程度は同じだ、と思っています。表現の仕方や最初の反応が違うだけなのです。
中国語には「面子」という言葉があり、それが「見栄」や「プライド」を表す言葉として日本語のみならず、英語などにも取り入れられましたので、いかにも中国人だけが体面を第一にする民族のように言われますが、それは、うまい言葉を先に発明しただけ損をしているようです。
日本人は「非をすぐに認める」「謝る」「下手に出る」ことを美徳としています。ですから、人から叱られたり、誤りを指摘されたりすると「はい。すみませんでした。これから気をつけます。」と反応する人が「素直な人」で、そうでない人は「ふてくされた人」とか「かわいげのない人」とみなされます。日本では、そのような謙虚な反応をすべきである、というのがいわば不文律となっていますし、誰でもふてぶてしい人間とみなされたくありませんから、相当反抗的な人でない限り平謝りに謝ったり、神妙な態度を取ったりしますし、もっと好印象を与えるために「どうもありがとうございました」などと叱責に対して感謝を表したりします。それが本当に心底から出ていれば、確かに素晴らしいことです。しかし、それは指摘された内容を、心から受け入れたということになるでしょうか。叱られた後、陰で別の人から同意や同情を得ようとして、「ねえ、あの上司、いつもうるさいわね」などと言いあって、「同病相哀れむ」の行為に及んだり、いつまでもうじうじ恨んでその人と距離を置いたりして、日本人は「陰湿な」方法で自分の非を認めたがらない民族だと私は感じています。私個人の経験からすると、最終的に叱責や助言を受け入れるパーセンテージはどちらの民族も同じだと思います。
中国人は叱責や誤りの指摘に対して、露骨に言い訳をします。またすぐには謝りません。(そこに日本人の監督者や管理者などは、カチンときて、余計にブチ切れるのですが・・・)それは上記の日本的な美徳の感覚や、「すぐ誤りを認めることを公に示す」訓練が出来ていないからです。人の前などで叱られれば、それだけ自分の正しさを主張しようとしてより一生懸命になって口実を探します。日本人からしてみると、「すぐに謝ればいいのに、可愛げのないやつだ・・・」と言うことになるのですが、よく考えてみると、日本人は人前で叱責されればされるほど、回りの目を意識しつつ、「はいっ、申し訳ありませんでしたっ」などと社会が求める、美徳とみなされる行為をしようとします。結局、どちらも根本は、体面を重んずる動機、つまり「爱面子」から出ているのではないでしょうか。心からの謙虚さとか柔軟さは、すぐに謝るかどうか、また、神妙な態度で叱責を聞くか、とは別の次元の問題だと思います。
日本人の監督者と中国人従業員などの間でよく生じる悲惨な誤解は、日本人の側の「親心」から発する叱責や助言です。日本人は、『愛する者ほど厳しく接する』というやり方が好きで、厳しく人前などで叱ってから、一杯飲みに誘って部下との良い関係を保つ、という方法を取ろうとします。部下との信頼関係がまだ築かれていない段階でそれをして、かえって関係を悪化させたという話をよく聞きます。
「中国人を人前で叱るな」という『掟』は、今やあちこちの本やコメントで聞かれるようになり、それを忠実に守る日本人監督者も増えています。しかし今度は、「俺は、この掟をしっかり守って、人前でなく、個人的に注意してやったんだが、それでも中国人というのは言い訳ばかりしやがる」というコメントも聞かれるようになりました。実はそこには大きな落とし穴があるのです。つまり、そのビジネスマンは決して一対一で話しているのではなく、通訳を介して話しているからです。通訳の介在も「人前」だ、ということを忘れているのです。
日本人監督者が、本当に効果的に中国人部下に助言や叱責を与えたいと願うならば、やはり語学力が必要だと思います。十分に信頼を勝ち得た上で、本当に一対一で話すこと。そうするならば絶対受け入れてもらえます。しかし、それには当然ながら時間がかかります。
この記事を読まれる多くの方は、ビジネスで中国人を監督する立場などにはなく、単に中国人と仲良くなりたいと思っておられる方がほとんどでしょう。最初のご質問も、そのような大前提で出されていることと思います。話がだいぶ飛躍してしまい、申し訳ありませんでした。
さて、中国人と仲良くするために「面子」にどう留意するか。
私の答えは、特になし、です。もし、長く深い付き合いを求めているのであれば、表面だけの、小手先のテクニックみたいなものは通じません。長い付き合いの中ではあなたの「地金」が出ます。「日久见人心」(付き合いの日数が長ければ、本心が見えてくる)です。ですから、誠実であることに心がけ、自分自身が本当に人を愛し、人から愛されるような人間になることです。中国語を学び、中国文化に触れるのは、単に相手を冷たく評論して優越感に浸るためではなく、相手の長所から学び、自分を磨くためであることを忘れないでください。

2008年06月14日

「爱人」か「老婆」か ― 時代の変遷に伴う言葉のニュアンスの変化

Q:今、大陸では妻を指すのに「老婆」という言葉が一般的になったと聞いています。日本の学習者の間では「爱人」が一般的です。実際はどうなのでしょうか?
A:1949年に中華人民共和国が建国され、「新中国」となるまで、自分の夫と妻を指すのに、親しい間柄で使われる口語では「老公」「老婆」が、ややかしこまった言葉として「先生」「太太」が使われていました。当時は貧富の差や身分の違いが大きく、「先生」「太太」は主として上流階級の間で、またそれらの人々を指す言葉として用いられていました。特に「太太」の方は「貴婦人」とか、召使いを使うような家の「奥様」という感じで用いられていました。「先生」「太太」は、下層階級の貧しい人々や農民には全く縁のないような言葉でした。
ところが「新中国」建設に伴い、こうした差別的な言葉、特に資本主義、ブルジョア主義的な言葉はけしからんということになり、1960年代から1970年代の文化大革命(略して「文革」、つまり中国の政治や社会構造だけではなく、宗教や思想、そして言葉までも改革してしまおうという運動)の間に互いの間での呼称は男性であれ女性であれ「同志」に、自分の配偶者を指すときには「爱人」を用いることが奨励されるようになりました。これなら社会階級や男女の差別が全くなくなるからです。
「老公」「老婆」は元々、階級差別のある言葉ではありませんでしたから、特に排除されたわけではありませんでした。一般の人々の口語の中には残りましたし、「旧社会」(つまり1949年以前の社会)の言葉に慣れ親しんでいた人々や年配の人々は、自分の夫や妻を「爱人」(この言葉には日本語の「愛人」という意味はありませんが「愛する人」「恋人」という意味がある)と呼ぶのが気恥ずかしいというか抵抗があると感じ、「老公」「老婆」を引き続き使用しました。もっともそれらの人々も公の場所などでは「爱人」を使っていたことでしょう。そうしなければ「ブルジョア主義だ」とか言われて批判されたり取り締まられたりした厳しい時期さえあったからです。
この「老公」「老婆」ですが、これはかなりくだけた身内や親しい間柄で用いられる言葉です。最近のテレビドラマなどを見ていると若い妻が夫に向かって、甘えた声で「老公~」(ねえ、あなた~)(発音としては「ラオコ~ン」となり「ラオコン~」ではないのでご注意を)などと呼び掛けます。夫も若い妻に向かって「老婆!」(「おい、お前」、「ねえ、君」くらいの感じ)と呼びかけるわけですが、これは日本語の「老婆」という語から連想しにくい感覚ですよね。でも、とにかく中国では若くてピチピチした妻にも「老婆」と呼びかけるのだということをお忘れなく。
「同志」は中国人同士の呼称としては定着しましたが、外国人を指す場合にはさすがに「同志」は使えません。外国人は社会主義の新中国建設の「同志」などではないからです。ですから外国人男性には「先生」、女性には「女士」「小姐」が使われていました。そんなわけで「先生」も生き残りました。
このように見ると「大奥様」「貴婦人」というようなニュアンスを持っていた「太太」だけが一時絶滅したことになります。
しかし1980年代の中頃からいわゆる経済開放が行われ(中国の一般の人々の会話の中ではしばしば「改革开放」と呼ばれる)、外国資本と外国人、そして外国文化が中国にどっと流れ込むようになりました。
私の観察によれば、現在中国で使われている中国語に多大な影響を与えているのは台湾でずっと使われていた、いわゆる「旧社会」時代の名残を残した「國語」です。1990年代から台湾の経済が低迷し、活路を求めて中国大陸に渡った台湾人は数百万人に上ると言われています。また外国の映画やテレビドラマの中国語版はほとんどが、台湾で字幕が作られたり中国語への吹き替えがなされたりするようになりました。また台湾の番組やタレントなども中国に行き来するようになりました。「台湾」は現在の多くの中国人にとって経済的発展の象徴です。ですからそこで話される中国語、つまり「國語」もあこがれの対象となりました。私は現在、上海に住んで仕事をしていますが、ここの中国人は私に向かって「你的国语,讲得很好!」と褒めてくれます。中国では「汉语,中文,中国话,普通话」という言い方だけが用いられると思ってびっくりして聞き返したのですが、台湾で中国語(普通话)を指して用いられる「国语」という言い方が上海にも定着してしまっていて意外でした。上海の多くの若者は最新の流行語としてわざわざ「国语」と言うようになっています。
さて、このあこがれの台湾では、当然「同志」「爱人」は使われず、「老公」「老婆」、「先生」「太太」がずっと生き残ってきました。ただ、台湾の過去60年の間に貧富の差は比較的なくなったため、上流社会の奥様を指して使われていた「太太」が、一般の「奥さん・夫人」という意味でどの階層の人々にも広く使われるようになりました。上にも述べた数百万に及ぶ台湾からの流入者と台湾版テレビ番組や吹き替えを通して、この「先生」「太太」が中国に逆輸入され、今の中国でもかなり普及するようになりました。
そのためむしろ「爱人」が古臭い言葉として敬遠されているように感じます。上海に住んで二年になりますが、ほとんど「爱人」という言葉を聞きません。公の場所や比較的かしこまった関係では「先生」「太太」が、親密な仲間内では「老公」「老婆」が使用されています。私は最初、「爱人」を使うようにしていましたが、今では「先生」「太太」が無難で使いやすい言葉だと思っています。この言葉が一般の上海人の間では丁寧な好ましい言葉として受け入れられているからです。もっともこの観察や語感が中国全土に当てはまるとは限りません。同じ大都市でも北京は比較的保守的・教条主義的ですし、反対に南の広州や深センは上海より開放的で新しいものを取り入れたがると聞いています。また話し手が社会のどの階層に属するかによってもそれぞれの語感は異なりますし、年齢によっても好き嫌いがあることでしょう。上記の私の観察は上海という限られた地域での経験にのみ基づいています。皆さんの住んでおられる地域ごとに、それぞれの社会的階層や年齢層ごとの使用例や皆さんがどういう言葉を使っているかをコメント欄に書きこんでくださると助かります。きっと日本の読者の参考にもなることでしょう。

2008年05月27日

切っても切れない動詞とすぐに別居したがる動詞 ― 「離合詞」の話(その2)

3月に離合詞についてご説明して以来、二ヵ月ぶりにまたこの話題に戻りたいと思います。大変ご無沙汰いたしました。
離合詞をすべて系統的に網羅することは不可能ですが、今回は幾つか注意すべき用法についてご説明したいと思います。
「结婚」「离婚」はよく使われる離合詞ですが、先回ご説明したような「帮你的忙」のように中間に人称代名詞を入れて「结你的婚」とか「离他的婚」とは言いません。結婚する相手を示す時は「跟」「和」(文章語の場合は「与」も使われる)などを使って「跟你结婚」「和他离婚」とします。これは「誰誰と結婚する」と助詞を使って表現する日本語に比較的近いですから、日本人にとってはかえってなじみ深い表現となっています。これは話ついでですが、英語やドイツ語を母国語とする人はよく「我要结婚她」などと言います。これはそれらの言語においてI marry herというように結婚する相手が動詞の後に目的語として出てくるからです。自分の言語習慣が新たに学ぶ言語に反映されるのは当然と言えば当然でしょう。
「毕业」(卒業)も外国人はよく「我毕业北京大学」と言いますが、これも正しい用法ではありません。「 我从北京大学毕业」「我是北京大学毕业的」が正解です。二番目の文章は「私は北京大学卒(業生)です」という日本語のように「毕业」が名詞的に使用されています。辞書によっては「我一九八二年毕业于北京大学」の用例が出ている辞書もありますが、この表現は文章として使用することはできますが、口語としてはちょっと硬い、不自然な表現になります。
「担心」(心配する)も「她为儿子担了不少心」(彼女は息子のことをかなり心配していた)「我为他担了一天的心」(私は彼のことを一日中心配していた)のように使える立派な離合詞ですが、実はこの離合詞は例外的に「目的語」を取れるのです。つまり、「我很担心你」(あなたのことが本当に心配だ)とか「大家担心你的健康」(みんながあなたの体のことを心配していますよ)という風に使えるのです。この動詞を分析してみると「心」に「かかる(担)」というようにすでに二要素からなっているので、本当ならばその後に目的語(客語)を取れないはずなのですが、上記のような「破格」の使用法がかなり普及しています。なぜこうなるのかと聞かれても困るのですが、恐らく「担心」という語が次第に普通の二文字の動詞(例えば「学习」「购买」)のような感覚で使われ始め、それが一般化したものだと思われます。このように言葉というのは「生き物」で絶えず変化しています。こう考えると将来いつの日か、「帮忙你」も受け入れられる時が来るかもしれませんね。
言葉というのは必ずしも数学のように論理的に組み立てられて使用されるわけではありません。感覚的に、フィーリングで、また他の語との類似性などによって新たな使用法がどんどん生まれてきます。また間違った使用法でもそれが一般化すれば時が経つうちに正解になってしまいます。日本語でも、テレビなどでタレントがわざとおかしな言葉を使ってそれが流行し定着したり、一部の方言が全国的に用いられるようになったりすることもありますが、中国語も良く似た状況にあります。
必ずしも漢字の意味から論理的に説明できないのは「生气」(怒る・腹を立てる)です。漢字の意味を分析してみると「气」(怒り)を「生」(生じる)ですから、「生他的气」と言うと、「彼の怒りを生じさせる」つまり「彼を怒らせる」と解釈したくなりますが、実はそうではないのです。これは「彼のことを怒る」つまり「彼に対して怒りを抱く」という意味なのです。ですから「我没有生你的气」(僕は君のことを怒ってなんかいないよ)「不要生我的气」(僕に向かって怒るなよ)となります。これはある人々には少し理解しにくく感じるかも知れません。理解しにくいと感じる人はきっと「他的气」(彼の怒り)「你的气」(君の怒り)というように捉えるからだと思います。はっきりしたことは言えないのですが、この離合詞は恐らく以下のような経緯で生じた表現だと想像できます。まず「(主語)生气」という言葉が十分に定着しました(例えば「我很生气」)。そのため「生气」を使っている人の頭も聞き手の頭にも主語以外の人が「怒る」ことは考えられません。怒る対象については正式には「(主語)对/向(対象)生气」と言うのが論理的には正解でしょうが、その他の離合詞との類推から「生(対象)的气」という中国語らしい形が使用されるようになったと考えられます。良く考えると、「帮你的忙」の中にある「你」も助けを与える対象で、同様の構造ですからそれほど例外的な使用法でもないと言えます。
「睡觉」(眠る)も離合詞です。実は「眠る」という意味を表すのは「睡」だけで十分で、では「觉」はどういう意味で「睡」とどういう関係にあるのか(動詞+目的語なのか、動詞+補語なのか、などなど)という論議が中国の学者たちの間でもかなり活発になされているわけですが、どのような構造で如何なる経緯で「睡觉」になったかはともかく、この二文字の動詞が定着しました。そしてこれが「睡了一个小时的午觉」(一時間昼寝した)とか「 大地震发生的时候,他还是睡他的觉」(大地震が起きた時も彼は引き続き眠っていた。[文字通りには:彼は引き続き自分の睡眠を取っていた])のように分離構造で使用されます。この際、話し手の意識の中には主語だの目的語だのという意識は全くなく、単に二文字の動詞、そして分離して使用できる動詞という意識が働いているにすぎません。これらの例を挙げたのは、言葉は厳密な論理の上に立って組み立てられているわけではなく、フィーリングや他の似たような語句からの類推みたいな感覚に基づいて形成される、ということを説明したかったためです。
このように、離合詞といっても様々な種類があり、その用法も必ずしも統一されているわけではありません。中国語の検索で「离合词」を調べると、一体何を持って「离合词」とするのか?「离合词」と純粋な「動詞+目的語(客語)」とどう違うのか?などについて様々な論議がなされています。読み物として、また学究的なテーマとしてそれはそれで興味深いものがありますが、そのあたりの理論的な説明は文法家に任せておくことにしましょう。実用を目標とする中国語学習者には、ごく大雑把な傾向というか特徴だけをつかんでおいて、あとは実践の過程、つまり実際に中国人の使っている用例を耳で聞いたり、文章になっている物を読んだりすることにより次第にそのニュアンスと感覚を身につけてスキルアップされることをお勧めします。

2008年04月22日

「可以知道」はどれほど頻繁に使われるか

Q:日本人の中国語学習者が「可以知道」と言うのをよく耳にします。日本語からの直訳中国語のような気がするのですが、中国人はこれを本当に使っているのでしょうか。

A:使えます。

ちなみに中国のGoogleで「可以知道」を検索してみると次のような例文が出てきました。

好友一上线我马上就可以知道 (オンラインするとすぐに親友だとわかる)

观察女性对水果的喜好可以知道 她的性格(果物に対する女性の嗜好からその性格がわかる)

什么网站可以知道 大连钢材的价格(どのサイトで大連鋼材の価格がわかりますか?)

有没有办法可以知道 胎儿的性别?(胎児の性別を知ることができる方法がありますか?)

从一个女人的面相可以知道 她是否有外遇(女の顔から浮気しているかどうかがわかる)

谁知道哪里可以知道 台湾选举最新票数?(台湾の選挙の得票数をどこから知ることができるか、知っている人いますか?)

興味深かったのは、この検索をしていたページの下の「相关搜索」(関連検索)にずらりと出てきた文が:

怀孕多少天可以知道 (何日で妊娠したとわかりますか)

多久可以知道 怀孕(どれくらいで妊娠したとわかるのか)

怀孕几天可以知道 (妊娠は何日でわかりますか)

怀孕多长时间可以知道 (妊娠はどれくらいの時間でわかるのですか)

什么时候可以知道 怀孕(いつ妊娠したとわかりますか)

最快多久可以知道 怀孕(最速ではいつ妊娠を知ることができますか)

というものでした。中国の若い女性が恐らく知りたがっている質問が使用回数の多い順に挙げられている様ですが、若者の間での最大の関心事が何かを物語っているようです。

さて、このように「可以知道」は普通に使われる言葉ですが、質問者の質問から推測できることが一つあります。それは日本人の中国語の中で「可以」が乱発されているのではないかということです。単に「知道」と言えばいいところに「可以知道」を使いすぎていることが多いため、その表現が不自然なものとしてこの質問者の耳に残ったのではないかと推察されるのです。

これは日本語の表現方法というか、日本人独特の、遠慮がちで、ストレートな言い方や断定を避けようとする心理構造に起因しているように思います。

例えば、英語や中国語で「私は食べたい」とストレートに表現するところを、日本語では(というより、日本人は)「食べたいと思います」と、もう一つの動詞を後につなげて、ワンクッション置いて、願望をむき出しにすることを避けるのが普通です。

同様に、ある事実を述べる際にも断定的・独断的と思われるのを避けるために、「○○である」という事実の後に、「○○であると言えるでしょう」とか「○○であることがわかります」と言うことが多くあります。これをもっとふんわりオブラートで包んだ(と本人が思っている)表現として「○○であると言えるかもしれません」とは「○○であることがわかるかもしれません」などという言い方をするも見受けられます。ちなみに日本にいたことがあり、日本語を話す中国人のほとんどは「日本人というのは意味のない言葉を長く羅列してまどろっこしい言い方をして困る」と言います。このような言語的感性から、日本人の話す中国語には「也许」「或许」「可能」「可以」など動詞を柔らかくする作用のある(と本人が考える)助動詞や副詞が乱発される傾向にあります。発音もまずまずで、語彙も豊富なのに、「日本人の話す中国語はやたらに複雑で何を言っているのかわからない」とか「本当に何を求めているのかわからない」というコメントもしばしば聞かれます。

日本人の中国語学習者が表現をする際に、「柔らかくオブラートで包みたい」という欲望をぐっと抑えて、ストレートな表現、遠慮をかなぐり捨てた表現をするようにお勧めします。「独断的」「断定的」「無骨」と言えるくらいの言い方が、中国人にはちょうどよいのです。統計的に、またケースごとに具体的な事例を挙げて分析したわけではありませんが、日本人が使用する「可以知道」の半分くらいは「可以」がいらないのではないかと思います。この場合、「就知道」とか、それを全く使わない言い方もオプションとして考えてみてください。

2008年04月21日

「通过」の用法について

今回は実は「離合詞」の第二回をお送りする予定でしたが、ある質問を受けましたのでそれにお答えすることにしました。

Q:「通过……来」という言葉を日本人の中国語学習者が使っているのを良く耳にしますが、この表現はよく使われるのでしょうか?

A:「通过」という表現は、「(ある)場所を通って・通過して」と言う意味ですが、これはパイプのような物や上下左右のある物や空間を通り抜けて、という概念に基づいています。これは「通」という漢字の持っている語感から来ています。

「现代汉语词典」(http://www.kotominet.com/staticpages/index.php/tools_01 参照)の「通」(動詞)の第一義を見ると「没有堵塞,可以穿过」(詰まっておらず、通り抜けることができる)とあります。ですから「通过地下道」(地下道を通って)とか「通过隧道」(トンネルを通って)と言いますが、「上海を通って来た」と言うような平面の動作については「通过」はあまり使われません。この場合は「经过上海来」というように「经过」を用いるのが普通です。

今度は「现代汉语词典」の「通过」という語の説明を見てみましょう。定義は次のようになっています。「从一端或侧到另一端或另一侧;穿过」(一端または一つの側から別の端または別の側へ[行くこと];通り抜けること)とあり、例文として「电流通过导线」(電流は電線を通る)「队伍通过了沙漠」(キャラバンが砂漠を横断する)とあります。あれ?後の方の文章は平面じゃないか?と言われる方もおられることでしょう。

言葉というものは数学のように1+1=2と割り切れるものではありません。いろいろな感覚や雰囲気が支配する領域(分野)なのです。その根底にある感覚や思考過程を考えるとやはり上に挙げた「パイプのような物や上下左右のある物や空間を指す」という説明に当てはまることがわかります。
二つ目の文を分析してみましょう。この文において「砂漠」は一種の空間として捉えられています。つまり「砂漠」という一種の特殊な空間を通って出てきた、という感覚があるわけです。ですから「通过」を使う方が、単に地理的な移動を指す「经过」よりも、一層生き生きとしたリアルな表現となっているわけです。

さて、上記はすべて人や物の具体的な移動について言及する「通过」の用例でした。今度は少し抽象的な用例についてご説明したいと思います。

中国語の「通过」は元々、上に説明したように具象的(実際に物や人の移動を表現する言葉)な語として使用されていましたが、西欧語やその他の言語(日本語も含む)の翻訳の影響を受けて、「…によって」「…を通して」という意味でも使用されるようにもなりました。

次の用例をご覧ください。

(1)我的作品,大部份是写给农村中识字的人读的,并且想通过他们介绍给不识字的人听的。(私の作品は、そのほとんどが農村部の読解力のある人々に対して書かれたものである。そしてそれらの人々を通して文盲の人に読み聞かせるために書かれたのである。)

(2)通过这一历史事实,我们可以更具体地分辩清楚中西文化的分歧之所在。(この歴史的事実を通して、中国文化と西洋文化の違いにつて具体的に知ることができるのである。)

(3)我愿意通过你们的电视台,传达我对总统和夫人的两好祝愿。(皆さんのテレビ局を通して、私から、大統領と夫人に対する祝福をお送りしたいと思います。)

(4)双方同意通过外交途径进行磋商。(双方は外交ルートによって協議することに同意した。)

(5)通过改革,取得长期持续稳定发展的条件。(改革を通して長期的な安定的発展を遂げることになる。)

(6)通过分析,他们决定把高地为首要的打击目标。(分析により、高地を主要な攻撃目標とする決定がなされた。)

このように、現代中国語には、「通过」という言葉を日本語の「…によって」「…を通して」に近い意味で使用している例が多数見受けられます。しかしながら、中国人は、この用法を、外国語の影響を受けた「バタ臭い」表現と感じるようです。

私が中国語を勉強し始めた頃、回りには英語(またはその他のヨーロッパ言語)を母国語とする外国人が多数おり、自分は知らず知らずにその影響を多分に受けた中国語を話すようになっていました。英語には「in」「with」「by」「through」などの前置詞が多用され、それによって様々な表現がなされます。英語を母国語とする人は、英語的感覚から、中国語の中に「通过」「藉着」「经过」などを多用します。外国語や外国の翻訳文章に接した事のない中国人にとって、それはかなり抽象的な表現で、全く理解されない事も少なくありません。

上記の例は、ある程度高い教育を受けた人や外国語の素養がある人にはすんなり理解できる文章ですが、そうでない、つまり、本当の庶民レベルの中国人には理解しにくい文章となっています。

ではどのような文章が理解し易い文章なのでしょうか?

さてここで試みに、「通过」「藉着」「经过」を使わないで、別の動詞を使ったり、二つの文章に分けて表現してみましょう。実は、そのような文章が、本当に「具象的な」つまり「具体的」で、中国語らしい表現となるのです。つまり、あまり教育のない、一般庶民にも理解できる文章となるのです。

中国語は具体的な主語・動詞・目的語(客語)を必要とします。それを心がけることによって上記の文章のうちの幾つかをこのように言いかえることができます。

(1)我的作品,大部份是写给农村中识字的人读的。我希望他们识字的人介绍给不识字的人听。

(2)我们分析这一历史事实,就可以更具体地分辩清楚中西文化的分歧之所在。

(3)我愿意利用你们的电视台,传达我对总统和夫人的两好祝愿。

(4)双方同意,(各方都)利用外交途径进行磋商。

(5)我们改革,才能取得长期持续稳定发展的条件。

(6)他们分析了情况决定把高地为首要的打击目标。

中国語らしい言い換え、によって何が変わったか、皆さんお気づきになったでしょうか。本当に中国語らしい表現というのは、主語、動詞、目的語(客語)がはっきりしている言語なのです。そして一文一文が独立して、単純な構造になっている文章なのです。

皆さんがお仕事で接する相手が、教育の高い人々でなく、一般の庶民クラスの中国人である場合、「通过」「藉着」「经过」をできるだけ使わないで、(1)文章を分離して別の一文にしてみること。(2)必要に応じて主語、動詞、目的語(客語)を挿入してみること、に心がけてみてください。これによって複雑な内容の文章が一層、中国人に理解してもらえるようになることでしょう。

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