« 第八十七回-「“诸葛亮会”-孔明会議」 | メイン | 第八十九回-「“司马昭之心,路人皆知”-魏のその後」 »

第八十八回-「“乐不思蜀”-蜀のその後」

孔明亡き後、蜀の国は孔明が残していった財産ともいえる政策を引き継ぎ、しばらくは安泰を保ちます。
政治面では、蜀の四相と呼ばれた、蒋琬(しょうえん)、費袆(ひい)、董允(とういん)が孔明の跡を継いで蜀を立派に治めます。
彼らは自分たちの能力が孔明に及ばないことを悟って、実直に、公正な政治を行ったため蜀の国は安泰を保つことができたのでした。
軍事面では、孔明の片腕だった姜維(きょうい)が後を引き継ぎますが、やはり孔明には及ばず何度か魏と戦いますが決定的な勝利は収められずかえって反撃に遭い逃げ帰ることもありました。
そうこうしているうちに、蒋琬、費袆、董允が相次いで亡くなります。後に残ったのはどうしようもない政治家ばかりでした。
わけても黄皓(こうこう)という宦官が、皇帝劉禅に気に入られているのを良いことに政治に関与してきます。その一方で皇帝の劉禅は政治を黄皓に任せきりにして、占い師のいうことを信じたり、てんでメチャメチャな政治を行うようになります。そして次第に国は腐敗していくのでした。
姜維はただ一人勇気を持って劉禅に進言し、悪の根源である黄皓を処罰するように申し出ますが劉禅は耳を貸しません。かえって姜維をうらみ殺そうとします。身の危険を感じた姜維は、魏を倒すという名目で首都の成都から離れ、漢中で暮らすようになります。
こうなってくると、首都の王宮では、劉禅と黄皓が、政治をまったく顧みず遊びほうけていたため、不可救药な状態となっていきました。
ちょうどその頃、魏では司馬懿の子、司馬師、司馬昭が実権を握りひそかに蜀を狙っていました。蜀の国力が弱まったのを見て取った魏軍は、姜維の守る鉄壁の漢中を攻めないで、ウラ道を抜けて直接、首都の成都を急襲します。劉禅は何の抵抗をすることもなく、あっけなく降伏してしまいます。
こうして劉備の建国した蜀は西暦263年、魏によって滅ぼされたのでした。
このときに魏軍が攻撃に利用したウラ道に関係する成語をご紹介しましょう。

成語:明修栈道,暗渡陈仓
意味:表向きの行動で人の目を欺き、他の目的を狙う
由来:魏から蜀に侵攻するためには、いくつもの侵攻ルートがある。桟道とは崖に作られた通り道。陳倉とは蜀と魏の中間にある要地。陳倉から侵攻するには桟道を通る必要はない。つまり、桟道を築くと見せかけて陳倉に侵攻するということ。三国志にこの地名が登場するが、実際にはこの言葉は項羽と劉邦の戦いの際に生まれた言葉である。

さて、降伏した劉禅は魏の都、洛陽で余生を送ることとなります。その時のエピソードから生まれた成語があります。

成語:乐不思蜀
意味:楽しさのあまり帰るのを忘れる。楽しさのあまり、物事の本質を忘れる。
由来:蜀の劉禅が魏に降り、洛陽に移された後のこと、司馬昭は劉禅のために宴を催し、蜀の音楽を演奏させた。その場にいた蜀の降将達は皆、涙を流したが、劉禅だけはひとり楽しそうにしている。司馬昭が思わず「少しは蜀のことを思い出しますかな」とたずねると、劉禅は「ここは楽しくて、蜀を思い出すことなどありません」と答えた。

このようなおバカさんの皇帝では、どうしようもありません。蜀の滅亡も自明の理といったところでしょう。
三国志ではなくて二国志になってしまいました。
さて、次回は「“司马昭之心,路人皆知”-魏のその後」と題して、蜀を滅ぼした魏のその後についてお送りします。


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kotominet.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/2904

コメントを投稿

2009年08月

            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

最近のコメント

カテゴリー

About

2009年02月19日 02:21に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「第八十七回-「“诸葛亮会”-孔明会議」」です。

次の投稿は「第八十九回-「“司马昭之心,路人皆知”-魏のその後」」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35