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2008年12月 アーカイブ

2008年12月01日

第七十一回-「一度は読もう!小説版三国志」

今回は、“三国志”が読める書籍をご紹介しましょう。このブログを通じて少しは三国志に興味を持っていただけたと思います。ぜひ皆さんには実際の三国志を読んでいただきたいと思いますが、三国志に関する本はいろいろあってどれから手を出していいのかわからない、文字だけを読むのは苦手、という方もいらっしゃると思います。
そこで今日は、皆さんのタイプに応じた本の選び方をご案内しましょう。
まず、本を読むのが好きという方から。
文庫本で“三国志”といえば、吉川英治の「三国志」でしょう。かくいう私も、はじめにこの本を読みました。15年ほど前、NHKのラジオ深夜便という番組で、橋爪功さんが、この本の朗読をしていました。私は毎晩11:35分から10分間このラジオの朗読を聞いてから寝ていたものです。その後、図書館で三国志の本を探していて見つけたのが、吉川英治の「三国志」でした。

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実は、今年の冬に友人が北京に旅行に行き、その時に三国志演義の中国語版を買ってきてもらったのですが、内容はまさに吉川英治の「三国志」そのもの、ちょっと感動しました。
ちなみにこの吉川英治の「三国志」は全8巻です。ぜひお勧めしたい本です。
文庫本で、もう一つオススメなのは、北方謙三の三国志です。吉川英治の作品は、三国志演義に忠実(劉備と孔明が善玉、曹操は悪玉)なのに対し、北方謙三は、一般的には悪者とされている曹操や他の登場人物も、それぞれ信念のある漢(おとこ)として描写しています。こちらの作品が全ての人物をより公平に描いているといえるでしょう。

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この文庫本は全13巻です。
さて、文字を読むのは苦手という方、お待たせしました。そんなあなたにピッタリなのが、横山光輝の漫画「三国志」です。吉川英治の「三国志」を元に書かれた漫画ですが、吉川英治の作品が、諸葛亮の死で終わっているのに対して、横山光輝の漫画は、蜀が滅亡するまでを描いています。

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ぜひ一度、読んでみてください。
さて、次回は「ダメな二代目-お馬鹿さんの代名詞劉禅」と題して、劉備の跡を継いだ、劉禅について、物語の続きをお話します。


2008年12月05日

第七十二回-「ダメな二代目-お馬鹿さんの代名詞劉禅」

劉備の跡を継いだ、劉禅とはどんな人物だったのでしょうか?中国では、劉禅は史上最低のバカ殿という評価を受けているようです。
劉禅の幼い時の名前は、阿斗(あと)といいます。阿斗のお母さんが彼を妊娠したときに、北斗七星の夢を見たので、阿斗と名づけられたようです。阿とは中国で~ちゃんという意味がありますね。
第二十七回で“百万军中赵子龙”という成語をご紹介しましたが、劉備の部下、趙雲が、百万の敵の中から、救い出した赤ちゃんが、この劉禅です。
劉備、関羽、張飛、諸葛亮などが必死になって建国した蜀という国を、わずか一代で滅亡に導いてしまったため、ダメな皇帝としての烙印を押されてしまっているわけです。
ちなみに阿斗、という名前がそのまま成語になっています。

阿斗
意味:他人の保護に頼る人、無能な人物、能無し

ひどい言われようですね。名前がそのまま、能無し、という意味の成語になるとはよっぽどのおバカさんだったんですね。
もう一つあります。

扶不起的阿斗
意味:無能者

意味は同じですね。
下の写真は、劉禅が、玉帯(ぎょくたい:皇帝のベルト)を落とした場所で落帯(らくたい)と名づけられた場所で、現在は洛帯と名づけられている旧跡です、成都の東にあります
こんなおバカさんがベルトを落とした場所では、あまりありがたみがありませんが・・・

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こんな最低の劉禅でしたが、ただ一つ良いところは、父親の劉備の遺言に従って、諸葛孔明の言う事を聞いていた、ということです。
それで孔明が生きている間は、蜀の国は安泰でした。その代わり、孔明の方には非常に重い負担がかかったのでした。
それで、劉備の死後の三国志の主人公は、諸葛孔明になったといえると思います。
次回からその孔明の活躍ぶりをご紹介したいと思います。次回「孔明フル回転!」と題してお送りします。


2008年12月09日

第七十三回-「公明フル回転!」

蜀帝、劉備の死を聞いて一番喜んだのは、魏の曹丕でした。まだ幼い劉禅が跡を継いだと聞いて、今こそ蜀を攻めつぶすチャンスだ!と考えます。一部の部下は反対しますが、頭角を現してきた司馬懿(しばい)という部下がこういいます。
「今こそ蜀を討つチャンスです!」
曹丕はさっそく、司馬懿にその作戦を尋ねます。司馬懿は答えてこう言います。
「蜀には孔明がいますが、五つの方向から同時に攻撃をすれば、さすがの孔明も防ぐことはできないでしょう。」
その五つの方向とは・・・
①北:遼西(新疆ウイグル自治区)の異民族に貢を送って北から蜀を攻撃させる。
②南:雲南(雲南省)の南蛮王に使いを送り、南方の都市を攻めさせる。
③南東:呉の孫権を動かし、長江を遡って永安(重慶市)を攻撃させる。
④東:蜀から降参した孟達(もうたつ)に、涪(ふ:四川省綿陽市)を攻撃させる。
⑤北東:一族の曹真(そうしん)を総大将として、陽平関(陝西省漢中市)を攻撃させる。
という大規模なもので、合計五十万にもなろうかという大軍でした。
この知らせが、届いた孔明は、ただちに行動します。
まず、①に対しては、異民族の間で、神威天将軍として尊敬されていた、馬超を迎撃に向かわせます。すると、馬超の名前を聞いただけで、異民族の軍隊は恐れをなして兵を引いてしまいました。
②に対しては魏延(ぎえん)という武将を派遣し、疑兵の計を使って南蛮軍をだまし、翻弄します。
④に対しては、孟達と仲が良かった、李厳(りげん)という武将を派遣し、孔明が書いた手紙を李厳の手紙として孟達に届けさせます。それを見た孟達は良心の呵責から、仮病を使ってまったく兵を進めようとしません。
⑤に対しては、蜀の随一の将軍、趙雲を派遣し、地の利を生かして曹真軍を撃退します。
しかし、問題は③の呉の軍隊です。孔明は呉と同盟を結びたいと思っており、呉も、そう簡単に魏の言いなりにはなりません。
そこで、軍勢が来る前に、呉と同盟を結んでしまおう。と孔明は考えます。そこで、鄧芝(とうし)という人物を呉に派遣し、呉と同盟を結びます。
こうして、司馬懿の遠大な計略も、孔明の知略にかかって、水の泡となりました。
さて、次回は、「“七擒七纵”-孔明おまんじゅうを作る」と題してお送りします。

2008年12月14日

第七十四回-「“七擒七纵”-孔明おまんじゅうを作る」

魏の総攻撃を退け、呉と同盟を結んだ孔明は、満を持して目を南に向けます。
魏の策略に乗せられて、蜀帝国に反抗した南蛮王、孟獲(もうかく)を成敗しに南蛮へ遠征します。南蛮は現在の雲南省南部からミャンマーの一部なども含んでいた地域のようです。
出発に当たって、孔明は馬謖(ばしょく)という右腕とも言える部下に、南蛮遠征の相談をします。そこで馬謖は孔明に提案します。

“攻心為上、攻城為下、心戰為上、兵戰為下”

「心を攻めるを上と為し、城を攻めるを下と為す。心もて戦うを上と為し、兵もて戦うを下と為す」この馬謖の答えから成語が作られています。
成語:攻心为上
意味:武力などを用いて力づくで屈服させるより、心服させることが大事である。
出典:三国志・蜀書・馬良伝付、馬謖伝

由来:南征に出掛ける諸葛亮を見送る馬謖に、諸葛亮は「長い間ニ人で作戦を練ってきたが、今もう一度、私に良策を授けてほしい」と言った。それに対する馬謖の返答の言葉。諸葛亮はその策を入れ南蛮を攻めた。
孔明の作戦の前に、南蛮王孟獲はあっけなく捕らえられ、孔明の前に引き出されます。しかし孔明はあっさりと孟獲を解き放ちます。気の済むまで戦え、というわけです。
そういうわけで、孟獲は孔明と戦っては捕まり、捕まっては解き放たれ、を繰り返し、ついには七回も捕まります。七回目に、孔明は孟獲にこう言います。
「やれやれ、私の愛も、おまえたちには通じなかったか。哀れな者たちだ。早く縄を解いて山へ返せ」
こうして孟獲を七たび解き放ちます。すると孟獲は泣きながら孔明に謝ります。
「無学な私たちですが、いにしえから七たび捕らえて七たび放したという例は聞いたことがありません。いかに無学な我々でもこのご恩に感謝せずにいられましょうか!」
孟獲は孔明に心服し蜀帝国に服することを約束します。

成語:七擒七纵
意味:戦いの相手を翻弄して心服させる
由来:諸葛亮が南蛮の酋長、孟獲を七たび捕らえ七たび逃し、ついには心服させたことから。
(歇后语)
七擒孟获→叫他心服口服
七度孟獲を虜にする→心から承服させる

孔明は南蛮から成都に帰る途中、犠牲となった戦死者を弔うために、肉に麺を包んで人の頭の形にしたものを河に流します。これが饅頭とよばれるようになったとか・・・
次回「“有其夫必有其子”-曹丕と曹叡」と題してお送りします。


2008年12月18日

第七十五回-「“有其夫必有其子”-曹丕と曹叡」

今回は一転、魏に注意を向けてみましょう。三国志演義では、蜀が主人公的な扱いとなっているために、魏と呉はあまり陽の目を見ないのですが、今回は魏の曹操の跡を継いだ二人の皇帝をご紹介したいと思います。
曹操が亡くなった後を継いだのは、以前ご紹介したように曹丕(そうひ)という人物でした。この曹丕という人物、父の曹操に似てなかなかの切れ者だったようです。曹丕が制定した制度としては、皆さん世界史で習ったかもしれませんが、九品中正法という有名な制度があります。
この制度の内容は、官僚を最高一品官から最低九品官までの9等に分類し(これを官品と呼びます)、同時に郡(今でいう県)ごとに中正官(ちゅうせいかん)と呼ばれる役職を任命し、管内の人物を見極めさせて一品から九品までに評価する(この人物への評価を郷品と呼びます)というものです。
目的は、有能な人物を見つけ出す、というものでしたが、人間のやることですから次第に弊害が出て行きます。中正官に賄賂を贈って、自分のことを能力以上に評価しようとしてもらう人物が現れたり、親のコネや生まれが重視されるようになりました。この状態を批判した有名な言葉として、西晋の劉毅(りゅうき)という人物の「上品に寒門(低い家格)無く、下品に勢族(高い身分)無し」と言う言葉があります。
と、まあ曹丕というのは有能な政治家でもあったわけです。
ところがこの曹丕は四十歳という若さで亡くなってしまいます。この曹丕の跡を継いだのが、曹丕の子の曹叡(そうえい)という人物でした。
曹叡は若くして皇帝になりましたが、非常に聡明な人物で、魏はますます栄えていくのでした。はじめは聡明な皇帝だった曹叡ですが、蜀の孔明が亡くなった後は、すっかり腑抜けになってしまい、暴君に豹変し、魏の滅亡を早めたといわれています。
この曹叡の代になって頭角を現したのが、司馬懿(しばい)という人物でした。曹操が生きていた頃から魏に仕えていたのですが、その才能を恐れられて、重用されていなかったのですが、曹叡が即位してから、側近として重用されるようになりました。
この司馬懿が、諸葛孔明の最大のライバルとなった人物で、この後の歴史を大きく左右することになります。
次回「三国一のしたたか男-司馬懿仲達」と題してお送りします。

2008年12月25日

第七十六回-「三国一のしたたか男-司馬懿仲達」

今回は、諸葛亮の最大のライバルとなった、司馬懿(しばい)についてご紹介しましょう。
司馬懿、字(あざな)は仲達(ちゅうたつ)といって、曹操の時代から魏に仕えていた人でした。しかし曹操の時代は、軍事面ではその才能を発揮する場所はなく、専ら事務的な役職に就いていたようです。曹操がなくなり曹丕の代になって、やっと頭角を現し重用されるようになりました。第七十三回で、魏が五方面から蜀を攻撃したお話をご紹介しましたが、その作戦を思いついたのも、この司馬懿でした。
前回ご紹介したように、曹丕は若くして亡くなりましたが、その死に際して三人の重臣を枕頭に呼び、後を託します。その三人の重臣とは曹丕の親戚に当たる曹真(そうしん)、前回ご紹介した、九品中正法を提言した陳羣(ちんぐん)、そして司馬懿仲達でした。
この司馬懿という男、才能はあったのですが、まさに“能ある鷹は爪を隠す”の言葉どおり、決して自分から能力をひけらかすようなことは無く、誰かが自分に助けを求めてくるのを待ってから行動するという、したたかな人物でした。
曹丕の息子、曹叡が皇帝になると、司馬懿は早速、西涼(せいりょう:現在の甘粛省・陝西省)に赴任したいと自ら申し出ます。
西涼はハッキリ言って田舎だったので、誰も反対をせず、物好きな人もいるものだ、と笑って司馬懿を西涼の総督に任命します。
ところが、この事実を知って愕然としたのは諸葛孔明でした。実はこの西涼という土地は、孔明が魏を攻撃するに当たって前もって平定しておきたい重要な場所でした。しかしそこに狙いをつけているのは孔明の他は誰も知りませんでしたが、司馬懿だけはその孔明の狙いを見抜いて、前もっ西涼に赴任したのでした。
もう一人、孔明と同じくその知らせを聞いて驚いたのは、孔明の片腕と成っていた馬謖(ばしょく)という人物でした。孔明と馬謖は相談して、今のうちに司馬懿を葬り去ってしまおうと策略をめぐらします。
司馬懿が皇帝が替わったのをいいことに、ひそかに反乱をたくらんでいる、というデマを魏の国内に流します。デマを信じた魏の朝廷は司馬懿を呼び出し、一切の官職を剥いで、司馬懿の地元に謹慎を命じます。
こうして孔明は司馬懿を最前線から隠居させることに成功したのでした。
ところが司馬懿はこのあと、また最前線に復帰します。それはまた後ほどご紹介したいと思います。
次回「みんな感動!出師の表」と題してお送りします。

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