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2008年10月 アーカイブ

2008年10月03日

第五十八回-「おじいちゃんの大活躍」

成都を支配下に治めた劉備は、曹操の領地になっていた漢中(陝西省漢中市)を攻略しに出陣します。
漢中は曹操の領地を攻撃するためには必ず通らなけらばならない重要地点で、ここを占領してしまえば、魏の副都心ともいえる長安(現在の西安)をいつでも狙うことができます。そういうわけで、この漢中の攻防戦は、劉備にとっても、曹操にとっても重要な戦いでした。
ちなみに、下の写真は現在の漢中駅の様子です。
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劉備軍は総力を挙げて曹操軍を攻撃します。なかでも大活躍したのが、劉備軍で一番の年寄りだった黄忠(こうちゅう)でした。
黄忠の活躍を表現した成語もあります。

成語:老的赛过黄忠
意味:年を取ってもまだまだ元気であること。
由来:老いてもまだまだ壮健な黄忠を称賛した言葉。

元気なおじいちゃん黄忠に対して、魏の大将は夏侯淵(かこうえん)という人物で、曹操の信頼も篤く、勇猛果敢なことで知られていました。
黄忠軍と夏侯淵軍のこの戦いは、定軍山というところで行われたので定軍山の戦い、といわれています。下の写真は現在の定軍山です。
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ここで黄忠は敵軍を疲れさせるためにある作戦を考えます。山の頂上に陣取っていた黄忠軍は、山の麓に向かって、いくつも間隔をあけて陣地を作ります。山の下に陣取った夏侯淵軍は、これを奪いに来ますが、黄忠軍はわざと負けて、一日ひとつずつ陣地を奪われていきます。
しかしこれは、夏侯淵軍に何度も山を登らせて疲れさせようとした、黄忠軍の作戦でした。夏侯淵軍は奪った陣地に、次々と食料や物資を運び込み頂上の黄忠軍を目指しますが、黄忠は夏侯淵軍の疲れがたまったのを見計らって総攻撃を仕掛けます。疲れているところへ山の上から総攻撃を食らった夏侯淵軍は、ボロ負けし、今まで奪った陣地と食料や物資など全て奪われてしまいます。そして乱戦のさなか、夏侯淵は黄忠に討ち取られてしまいます。こうして黄忠の大活躍によって、漢中は劉備の支配下となったのでした。
このときに黄忠が用いた戦法は、成語にもなっています。
成語:反客为主(客を反して主と為す)
意味:ものの順序、立場、軽重が逆になること。主客転倒。
由来:定軍山の戦いで、蜀の参謀・法正が黄忠に進言して用いた策略

さて、次回は「王様になった劉備」と題してお送りします。

2008年10月06日

第五十九回-「一身是胆-趙雲の大活躍」

今回は、前回の続きで、題を変えてお送りします。
大将の夏侯淵が討たれた曹操軍は、恨みをはらさん!とばかりに大軍を挙げて劉備軍の攻撃に移ります。
ときに、劉備軍の最前線を指揮していたのは、趙雲でした。趙雲といえば関羽、張飛と並ぶ勇将、彼が指揮した軍隊は負けたことがありません。そこへ曹操軍の大群が押し寄せてきました。その数は数万、対する趙雲は数千の兵と小さな城に陣地を取っていました。遠くから曹操の大軍が向かってくるのを見て、趙雲の部下たちは恐ろしさのあまり逃げ出しそうになりました。
ところが、趙雲は恐れている部下を叱り付けてこういいます。
「むかし曹操軍百万を蹴散らしたのは誰だ!」
そうです、趙雲は過去にもたった一人で曹操軍百万を蹴散らしたことがありました。(第二十七回参照)
趙雲は部下に命じます。
「全ての門を敵へ開け!弓を持つものは濠の中に身を伏せろ。たとえ敵が目に入っても決して動いてはいけない。わたしが指示するまで決して何も話してはいけない。」
こう言うと、趙雲はただ一人馬に乗り、城にかかる橋の上で突っ立っていました。
曹操の大軍は、城の近くまで押し寄せましたが、趙雲がただ一人でいるのを見て不気味に思い、ストップします。曹操は自ら命令を下し、総攻撃を命じます。曹操軍はまたまた前進しますが、趙雲がピクリとも動かないので、また怪しく思いストップします。すると趙雲が曹操軍に向かってこう言います。
「やあ、魏の方々、せっかくここまで来ながら、何も言わないで逃げ帰ることがあるか?まあ待て待て」
この言葉を聞いて、曹操軍は意を決して突撃して来ました。曹操軍を城のぎりぎりまで近づけておいて、趙雲は下へ向かって「今だ!」と大声を出します。
すると、濠に身を隠していた弓兵が、地面すれすれに馬をめがけて次から次へと矢を放ちます。曹操軍はバタバタと倒れて、あわてて引き返そうとします。ところが、すでに劉備軍の援軍が曹操軍の後ろに迫っており、しかも城内から趙雲が全軍を率いて突撃してきたため、曹操軍は挟み撃ちに遭い、ボロ負けしてしまいます。
なんといっても今回の勝因は、趙雲の決断でしょう。この趙雲の働きに劉備もいたく感心し、勝利の知らせを聞いた劉備は趙雲のことを「満身これ胆の人か」と賞賛したといわれています。
今日は、この劉備の言葉から取られた成語をご紹介しましょう。

    一身是胆
    意味:きわめて大胆で勇敢なこと
    由来:曹操の大軍を前にして、趙雲が大胆な作戦で曹操軍を破ったことから

次回「王様になった劉備」と題してお送りします。

2008年10月13日

第六十回-「王様になった劉備」

趙雲や黄忠の働きで漢中を支配下におさめた劉備は、領土の大きさからしても、魏の曹操、呉の孫権と肩を並べることのできる大きな勢力となりました。
漢中という都市は、劉備の先祖で、漢帝国の創始者であった劉邦が地盤を固めた場所でもありました。そこで、孔明をはじめ、劉備の部下たちは、劉備に、漢中王の位に就くようにと勧めます。
これまで劉備はただの、ボスだったわけですが、正式に王と名乗ることによってハクがつきます。
劉備は漢帝国の皇帝に申請書を提出し、漢中王という位を認めてもらうようにお願いをします。朝廷は快く許可を出し、ついに劉備は、漢中王という王様になります。
王となったといっても、特になんの変わりも無いのですが、正式な国を作ることができるので部下の役職名など、いろいろとカッコイイ名前をつけることができるのです。
正史の三国志には書かれていませんが、三国演義の中に書かれているのは、五虎大将軍(ごこたいしょうぐん)という称号です。
劉備は軍の中でもとりわけ強い五人の武将を、五虎大将軍という位に就けます。
その五人とは、関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠の五人です。漢中王となった劉備は、まさに名実共に一国の主として、曹操とも互角に渡り合えるようになったのです。
劉備は、関羽を荊州方面の総大将とし、魏の曹操の領地に侵攻するように命令を下します。関羽はさっそく、襄陽(湖北省襄樊市)へ攻め込む準備をします。
一方、劉備たちの知らないところで、陰謀がめぐらされていました。劉備がいつまでたっても借りた荊州を返さないのを不満に思っていた孫権に、曹操が手紙を書きます。油断している劉備軍を裏切り、魏と共に劉備を倒そう、という手紙でした。
孫権は曹操と手を組むつもりはありませんでしたが、荊州を返してほしいと思っていたので、曹操の力を借りて力づくで荊州を奪い取ろうと考え、魏の曹操と停戦条約を結んでしまいます。
そうとは知らない劉備は、関羽に曹操の襄陽に攻め込ませます。関羽軍は圧倒的な強さで曹操軍を蹴散らします。そして、万が一、呉が裏切って攻めてきても大丈夫なように、見張り台をいくつも作り、急変があったときにもすぐに関羽の下に知らせが届くように万全の体制で臨んでいます。
しかし、劉備軍にとってまさかまさかの展開が待っていました。
次回「油断大敵!関羽の死」と題してお送りします。

2008年10月16日

第六十一回-「油断大敵!関羽の死」

圧倒的な強さで、曹操軍を攻め立てていた関羽でしたが、まさかの展開が待っていました。万が一、呉が裏切って攻めてきても大丈夫なように、見張り台をいくつも作り、急変があったときにもすぐに関羽の下に知らせが届くように万全の体制で臨んでいたのですが、まさかの事態が発生します。
呉の総大将は呂蒙(りょもう)という人物でしたが、彼は策略に長けていることで有名だったので、関羽も呉を警戒していました。ところが呂蒙は仮病を使い、自分の代わりに陸遜(りくそん)という人物を総大将とします。陸遜という人物はまだ若くあまり名も知られていない人物でしたが呂蒙の弟子ともいえる有能な人物でした。あまり有名ではない人を総大将にして関羽を欺こうとしたのです。
関羽はまんまとだまされて、呉への警戒を緩めてしまいます。このスキに呂蒙は見張り台を奇襲し占領してしまいます。そして降伏した関羽軍の兵士に大金を見せ、「次の見張り台の人を降伏させたらこの大金を与える」と約束し、同じ手口で次から次へと見張り台を占領し、あっけなく荊州城を占領してしまいます。
そんなことが起きているとは夢にも思わず、関羽は襄陽を猛攻撃していました。ところが、呉軍から荊州占領の知らせを聞いた魏軍は、ここぞとばかりに反撃に出ます。ついに関羽の下にも荊州が占領されたという知らせが届きます。
前には魏軍、後ろには呉軍、関羽軍は行き詰まってしまいます。
ついに関羽軍はわずか5百人となって麦城(ばくじょう)という城に追い詰められてしまいます。下の写真は麦城があった場所の現在の様子です。

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呉の孫権は、関羽の才能を惜しみ何とかして味方に引き寄せようと、降伏を勧めますが、関羽は聞き入れません。
ある夜、関羽はわずかに残った味方と共に、何とか脱出して遠く劉備のいる成都に向かおうとしますが、途中で呉軍に捕らえられてしまいます。
下の写真は関羽が捕らえられた場所に立っている石碑です。

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関聖帝君と刻まれているのが見えますか?関羽を尊敬して言う呼び名です。

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馬に乗った関羽の雄姿が刻まれていますね。
さて孫権の前に引き出された関羽は、またしても降伏したらどうか、という勧めを断り、孫権に処刑されてしまいます。
時に西暦219年10月、ついに三国一の豪傑、関羽は帰らぬ人となりました。関羽の死は、蜀や劉備にとっては大誤算で、このあとの展開を大いに変えました。
次回「顔真っ赤-“关公吃酒”」と題して、関羽にまつわる成語についてお伝えします。

2008年10月21日

第六十二回-「顔真っ赤-“关公吃酒”」

今回は、三国一の豪傑、関羽にまつわる成語をご紹介します。
関羽といえば、顔が赤い、鬼のように強い、といったイメージの成語が数多くあります。

关公吃酒(歇后语)→看不出来
関羽が酒を飲む→見分けがつかない

関羽の顔が赤かったことからきた歇后语で、飲んでもかわらないほどもともと顔が赤いということでしょうか?
また、関羽はなくなる少し前に、領土の交渉のために呉の設けた宴会に行ったことがあります。その時の宴会からいくつか成語ができています。

单刀赴会(歇后语)→声势压人
危険な会合に単身乗り込む→気勢で圧倒する


关公赴会(歇后语)→单刀直入
関羽が会合に赴く→単刀直入


关羽赴宴(歇后语)→有胆有魄
関羽が宴席に赴く→度胸迫力あり

ある戦いのとき、矢が関羽の肘に刺さり、その矢には毒が塗られていたため、骨と肉が腐りかけてきました。それで当時の名医の華佗(かだ)という人物に、手術をしてもらったことがあります。当たり前ですが、当時は麻酔なども無く、手術といえばノミやツチなどでの荒療治で普通の人であれば、あまりの痛さに失神してしまうほどのものでしたが、関羽はなんと、肉を切り、骨を削らせながら、平然と碁を打っていました。そのことからとられた成語もあります。

关云长刮骨疗毒
痛がらない、我慢強い、やせ我慢をする


关云长刮骨下棋(歇后语)→若无其事
骨を削りながら碁を打つ→何事も無かったかのように、平然としている

こんなに強い関羽でしたが、最後は呉に捕らえられて処刑されてしまいました。そのことを悲しむ成語が一つ。

成語:走麦城
意味:運に見放された英雄の哀れな最期
由来:関羽が呉の裏切りに遭い、麦城から逃げ捕縛され処刑されたことから。

今回は少しお勉強のようになってしまいましたが、関羽にまつわる成語を少しでも、実際の場面で使ってみてください!
次回は「コツコツお勉強-“刮目相看”」と題して、関羽を見事に打ち破った、呉の将軍、呂蒙(りょもう)の紹介と、彼にまつわる故事成語をお伝えします。

2008年10月24日

第六十三回-「コツコツお勉強-“刮目相看”」

今回は、関羽を見事に打ち破った、呉の将軍、呂蒙(りょもう)の紹介と、彼にまつわる故事成語をお伝えします。
名前は、呂蒙(りょもう)字(あざな)は子明(しめい)、実ははじめは、呉でも頭脳派としては有名ではありませんでした。
呉には、以前にご紹介した周瑜という天才がいて、周瑜が亡くなった後は、親劉備派の魯粛が、軍事の一切を取り仕切っていました。魯粛が病気で亡くなったとき、後を継いで軍事の一切を任されたのが呂蒙でした。
若いころの呂蒙は、武勇一辺倒で、文字も読めないほどの有様でしたが、主君孫権に励まされて、勉学に励むようになりました。
勉強ができなかったころの呂蒙からとられた成語とは・・・

成語:吴下阿蒙
意味:成長の無い者

“阿”とは、日本で言うと“~ちゃん”というニュアンスですから、呉の蒙ちゃん、という感じでしょうか?
ところが、呂蒙は勉学に励むようになってから、みるみる成長して周りの人を驚かすようになります。
ある時、魯粛は、かつて武勇一辺倒であった呂蒙が一念発起して勉学に励み、豊かな学識を備えた人物となった、との評判をきき、呂蒙に会いに行きました。事実その評判通りだったので、魯粛は先ほど紹介した成語をもじり、「もう呉の蒙ちゃんではないみたいだね!」と声をかけました。その言葉から取られた成語がこれです。

成語:非复吴下阿蒙
意味:成長の著しい人物

魯粛の言葉に対して呂蒙はこう答えます。その答えから取られた成語がこれです。

成語:士别三日,即更刮目相待
意味:優れた人物というものは、暫く会わないでいると、その間に大きな進歩を遂げているものなので、次に会ったときにはよく目を凝らして見直さなければならない。

上の言葉を短くして、良く使われる形にしたものが二つあります。

成語:刮目相待・刮目相看
意味:新しい目で見る。目をよくこすって見る。刮目して看る

というわけで、皆さん、次に誰かと会った時に、その方が少しでも成長していたら、上の成語を使って褒めてあげましょう!

さて、次回は「医者嫌いだった曹操」と題して、お送りします。


2008年10月27日

第六十四回-「医者嫌いだった曹操」

魏の曹操は、近頃めっきり体調が悪くなっていました。どうも頭がガンガン痛むとのことです。熱もあるようです。
実は曹操の脳には、今でいう“脳腫瘍”があったようです。曹操の体を心配した部下たちは、四方八方を探し回り、一人のゴッドハンドを見つけ出します。
名は華佗(かだ)といって曹操と同じ故郷の出身の人物でした。これまでにも多くの武将の傷を治してきた伝説の名医でした。
華佗の見立てによると、曹操の病気はやはり“脳腫瘍”でした。なんと華佗は脳外科手術を提案します。麻肺湯という麻酔薬を飲んで、その間に脳を開いて腫瘍をとるというのです。
曹操は、万が一うまくいかなかったらどうするのか?と尋ねます。華佗は“そうなれば、寿命と思ってあきらめていただくしかありません”と正直に答えます。
この発言を聞いた曹操は、華佗が自分を殺そうとしていると勘違いし、怒って華佗を牢屋につないでしまいます。ところがそうしている間にも曹操の病状は悪化します。頭が痛くなりすぎておかしくなった曹操は、華佗を殺してしまいます。

曹操杀华佗(歇后语)→讳疾忌医
曹操が華佗を殺す→病気を隠して治療を嫌う。

こうして曹操は、脳腫瘍で帰らぬ人となりました。六十六歳でした。
曹操にはその時点で四人の男の子がいましたが、一番年上の曹丕(そうひ)が跡を継いで魏の王となります。
次回は、「曹操杀人」と題して、まだご紹介していない曹操にまつわる故事成語をご紹介したいと思います。


2008年10月31日

第六十五回-「曹操杀人」

今回は、前回で亡くなった曹操に関係する故事成語をご紹介します。
曹操といって連想されるのは、残酷、冷酷、といった悪いものばかり、もちろん物語ですから脚色されていますが、あながち間違いというわけでもないようです。

「曹操杀人(曹操が人を殺す)」→「乱来一气(むちゃくちゃなことをする)」。
 曹操が、お父さんを殺された報復として、徐州(現在の江蘇省徐州市)に侵攻し虐殺(人や動物皆殺し)を行なったことから。

あとは、三国志の中でも一番の人気者、諸葛亮と比較して、こんな成語もあります。

曹操诸葛亮(歇后语)→脾气不一样
曹操と諸葛亮→性格は人それぞれ。十人十色。

一方で、曹操は詩人だったので、なるほど、と思わせる名言も残しています。

成語:得陇望蜀(攏を得て蜀を望む)
意味:欲望には限りが無い
由来:攏(ろう)地方を平定した後、臣下が曹操に「この調子で蜀(劉備の国)に攻め入りましょう」と勧めたのに対し、曹操が「攏を得て、さらに蜀を望むのか?」と答えたことから。

また、こんなものもあります。

曹操吃鸡肋(歇后语)→食之无肉,弃之有味

 曹操が鶏のあばら骨を食べる→食べるにしても肉はないが、味があるので捨てるには惜しい(実質的な意味はないが捨てるには惜しい)
漢中で劉備と対峙していた曹操は劉備を攻めあぐねていた。これ以上の駐留は無駄とみた曹操は、帰還するつもりで「鶏肋」という布令を出した。部下達が意味をわからずにいる中、楊修という人物は旅支度を始めた。理由を人にたずねられて楊修は「鶏の肋(あばら)は捨てるのはもったいないが、腹の足しになるものでもない。つまり漢中を攻略してもあまり意味は無い、と判断されたのだ。」と答えたことから。

では最後に一つ、曹操の正確とは何の関係もありませんが、こんな格言もあります。

格言:吃曹操的饭,做刘备的事
意味:二心を持つ

今回は、曹操に関する成語をご紹介しました。
さて、曹操が亡くなった、曹操の子供たちが兄弟げんかを始めました。次回「兄を泣かせた天才詩人」と題してお送りします。

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