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2008年09月 アーカイブ

2008年09月02日

第五十回-「赤膊上阵-猛将馬超」

諸葛亮に並ぶ天才、庞統を部下に迎えた劉備を見て、これはいかんと考えていたのは魏の曹操でした。
関羽、張飛、趙雲という三国でもトップ3の武将がいるところに、諸葛亮、庞統を軍師として、まさに人材的には文句の付け所の無い劉備軍。
いまのうちにたたいておかないとあとで大変なことになると考え、劉備をつぶす作戦を考えます。そこで思いついたのが、当時、涼州(現在の甘粛省)を治めていた馬騰(ばとう)という人物です。これまで戦いにあまり巻き込まれなかったため、まだ力を残していました。
曹操は漢帝国の皇帝の名を使って馬騰を呼び寄せ、皇帝に圧力を加えて、劉備を滅ぼすようにという詔(みことのり)を皇帝から馬騰に伝えさせようとします。
皇帝の呼び出しに応えないわけにも行かない馬騰は、曹操と皇帝のいる洛陽にやってきます。そこで馬騰は皇帝に謁見し、劉備討伐の詔をいただいたことに感謝します。ところが、皇帝はそっと馬騰を呼び寄せこういいます。
「馬騰、そちは曹操と劉備、どちらが余の真の敵かわかっておるのか!倒すべきなのは曹操ではないか。劉備討伐と称して曹操を討て。」
こうして馬騰は、曹操討伐という密命を命じられます。ところが、この曹操討伐は事前に漏れてしまい、馬騰とその一族は曹操に皆殺しにされてしまいます。ただ一人、甥の馬岱(ばたい)という者だけが何とか逃れ、命からがら馬騰の長男がいる涼州に戻ります。
長男の名は、馬超(ばちょう)字は孟起(もうき)という人物でとても強い武将でした。馬超は父の仇を討とうと、全軍を引き連れて長安(現在の西安)に殺到します。長安といえば当時の魏にとって、日本で言う、大阪のように重要な都市だったので、曹操軍はあわてて攻撃を防ごうとしますが、馬超軍の猛攻撃と巧みな戦略の前に、あっさり馬超軍に奪われてしまいます。
仰天した曹操は、自ら大軍を率いて馬超討伐に向かい、最終的に何とか馬超を追い詰めたものの、そこで莫大な兵力を使ってしまったため、劉備軍を討伐することはできなくなってしまいました。
この馬超は、この少し後に、劉備の部下になりますが、それはまた後ほど。
さて、今回は馬超軍と、曹操軍の戦いで生まれた成語をご紹介しましょう。



赤膊上阵
元来の意味→何も考えずに猛然と戦う
現在の意味→悪人が公然と悪いことをする
由来:曹操軍の許褚と、馬超との一騎打ちから出た言葉。百合打ち合ったが勝負がつかず、馬を替えて更に百合打ち合っても勝負がつかなかった。すると突然許褚は陣に戻ると、鎧兜を脱いで上半身裸になり、再び馬超に挑んでいったことから。

さて、次回は「万里长城-三国志時代」と題して、三国時代の周辺異民族についてご紹介します。

2008年09月05日

第五十一回-「万里长城-三国志時代」

中国といえば万里の長城、というほど有名な万里长城ですが、皆さんもご存知のように、この長城は北方の異民族の侵入に備えるために秦の始皇帝が建設したといわれています。しかし実際には大部分は明の時代(西暦1368-1644年)に建造されたようです。
さて、そんな万里の長城、三国志の時代にも存在していました。当時も北方の異民族はたびたび侵入を試みたようです。魏、呉、蜀、それぞれの国は各地方の異民族の対応にも尽力しました。
まず万里の長城を支配下におさめていた魏は、北方の鮮卑(せんぴ)族、西方の羌(きょう)族と対抗する必要がありました。
また、呉は山越(さんえつ)族の反乱に手を焼いていました。現在の福建省あたりに山越(さんえつ)の勢力があったようです。
そして、蜀は南蛮(なんばん)族の反乱を抑える必要がありました。現在の雲南省あたりの勢力です。
三国時代の異民族も漢民族に対しては敵対心があったようですが、魏、呉、蜀、それぞれ当時は力を持っていたため反乱を抑えることができ、異民族は自分が属する国にそれぞれ貢物などを進呈していたようです。
前回の話で出てきた、馬超は羌(きょう)族と漢民族の混血だったようで、異民族から絶大な人気と信頼がありました。そのため三国志演義の中では、馬超が蜀に降伏した後、馬超は北方の異民族に顔がきいたため、異民族は蜀に侵入してこなかったようです。
また、蜀の支配下にあった南蛮(なんばん)族は劉備の死後、蜀に反乱します。その際、諸葛亮は全軍を率いて南蛮軍を制圧に出かけます。そのときの様子はまた後ほど解説したいと思います。
今回は少し脱線しましたが、三国志時代の周辺異民族についてお話しました。次回からいよいよ、劉備が蜀の国の建国の第一歩を踏み出します。
次回「“井底之蛙”-乗り遅れた二代目」と題してお送りします。

2008年09月10日

第五十二回-「“井底之蛙”-乗り遅れた二代目」

曹操、孫権、劉備が覇権を争っていたころ、どの勢力にも巻き込まれず平和に暮らしていた国がありました。それは益州です。
国王の名は、劉璋(りゅうしょう)といって、劉備と同じく、皇帝の遠い親戚でした。つまり劉備とも遠い親戚だったようです。
益州は現在の、四川省、貴州省を含む地域で、山岳地帯が多いため外部から侵入されにくいという利点がありました。
この劉璋という男、良く言えば“おおらか”悪く言えば“能天気”な人物でした。
この益州に目をつけたのは諸葛亮と庞統でした。劉備は今、荊州(湖北省・湖南省)を治めていますが、もともと諸葛亮は、この荊州と益州を領地にして、曹操、孫権と対抗しようというビジョンがありました。
荊州を地盤として今度は益州に攻め込もうと考えたのです。
そんな時、益州の北にある都市、漢中(現在の陝西省漢中市)で、またまた怪しげな宗教が流行りだしました。宗教名は五斗米道(ごとべいどう)、教祖の名は張魯(ちょうろ)といいます。入会するときに五斗のお米を寄付すれば入会できるという宗教でした。
例のごとく、この宗教も調子に乗って、“まずは益州の統治権を奪って曹操と対抗しよう”と劉璋の元に攻め込む構えを見せます。
慌てたのは劉璋、これまで戦いなどしたことが無かったので、急いで曹操の元に使者と礼物を送って、助けたくださいと頼みます。
この使者になったのは張松(ちょうしょう)という人物でしたが、期待を抱いて曹操と面会したところ、曹操の態度にがっかりし、失望のあまり曹操をバカにする発言をしたため、魏の国を追い出されてしまいます。
とはいうものの、ただで帰るわけには行かない張松は、荊州に寄り道して劉備に援軍を頼もうと考えます。
荊州に入ると、曹操の魏とは大違いで、熱烈に歓迎されて、張松は大喜びします。また、実際に劉備に接して、益州を救ってくれるのは劉備しかいない、と援軍を頼みます。
しかし、張松はもう一つ劉備に頼み事をしました。それは劉璋に代わって劉備に益州を治めてほしい、というものでした。それで、見かけは援軍の形で入って、最後に占領してしまえばよい、という提案をします。
劉備としても、渡りに船とばかりに同意し、こうして劉備の蜀の国建国の第一歩が踏み出されたのでした。
続きは次回「劉備マイホーム探しの旅」と題してお送りします。

2008年09月12日

第五十三回-「劉備マイホーム探しの旅」

前回お話したように、張魯率いる怪しげな宗教に脅かされていた蜀の劉璋は、劉備に援軍を頼みます。劉備は援軍に行くと見せかけて、領地を占領するつもりで、さっそく益州(四川省)に向けて出発する準備をします。
一方、蜀に戻り、主君劉璋に面会した張松は、曹操ではなく劉備を頼みとするように、と進言します。劉璋の部下の中には、劉備と同盟を結ぶことを良く思わない人もいましたが、劉璋の「劉備とわしは親戚である。疑うなどもってのほかだ!」という一言で、劉備に援軍を依頼することになったのでした。
はじめは、親戚である劉璋をだまし討ちにするのは忍びないと考えていた劉備でしたが、庞统の熱心な勧めで益州へ出発します。
しかし心配なのは、荊州の守りです。そこで、北の魏との境、襄陽(湖北省襄樊市)には関羽を、東の呉との境、江陵(湖北省荊州市)には趙雲、南の四郡(湖南省)一帯には張飛、中央の荊州には孔明を残し、名だたる武将を各地方に配置し、四境鉄壁の備えをして、劉備は出発します。
益州への軍には、軍師として庞统を連れて行きます。劉備と劉璋は対面し、劉備は劉璋の力になると約束します。
下の写真は、劉備と劉璋が対面して酒を交わしたとされる涪城(ふじょう:現在の四川省綿陽市)にある像です。
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そんな折、さっそく例の宗教の軍団が益州に攻め寄せてくるとの知らせが入りました。さっそく劉備軍は応戦に向かい、見事撃退します。ここで庞统が作戦を考えます。まず、戦いに必要な食料や武器などを劉璋に要求します。劉璋は要求どおり物資を送ろうとしますが、部下たちに反対され、形ばかりのわずかな食料と粗末な武器しか送りませんでした。
劉備は怒って、荊州に帰ると、劉璋に伝えます。劉備が荊州に帰ると聞いて、劉備を快く思っていない劉璋の部下たちは喜び油断してしまいます。
そこで劉備軍は突如に攻撃を起こし、益州の北の要である涪(ふ:四川省綿陽市)を占領してしまいます。
あとは劉璋のいる成都を目指してまっしぐら、と行きたい所でしたが、劉璋軍の必死の抵抗によって劉備軍に思わぬアクシデントが襲います。
次回「才能を活かしきれなかった男」と題してお送りします。

2008年09月16日

第五十四回-「才能を活かしきれなかった男」

劉璋を裏切り、益州の北の要である涪(ふ:四川省綿陽市)を占領した劉備軍でしたが、劉璋軍の必死の抵抗によって劉備軍に思わぬアクシデントが襲います。
軍師、庞统の死です。
先日起きた四川大地震の報道で皆さんもご覧になったと思いますが、四川省綿陽市付近は山岳地帯で、険しい山や細い道ばかり、劉備軍は侵攻するのに大変苦労しました。加えて蜀軍を指揮していたのは、蜀随一の名将と言われた張任(ちょうじん)という人物でした。
張任の指揮する蜀軍の前に、劉備軍は大敗し、乱戦の中、庞统は命を失ってしまいます。36歳の若さでした。
孔明と並ぶほどの頭脳の持ち主でしたが、あまり有名ではないのは、この早死が原因と言われています。
頼みとする庞统を失った劉備は、慌てて荊州にいる孔明に手紙を書き、孔明は荊州の留守を関羽に任せ、張飛、趙雲を伴って援軍に向かいます。
劉備軍は絶体絶命の危機でしたが、孔明の指揮する援軍がギリギリ間に合って、危機を脱します。
こうして、新たに孔明を軍師として、成都へ向かって進軍します。蜀随一の名将と言われた張任も孔明の前にあっては、ことごとく策を見破られ、あっさり劉備軍に敗れてしまいます。蜀軍のほとんどの武将が、劉備軍に降伏し、残る都市は成都のみとなったとき、蜀の劉璋は背に腹は代えられぬ、とばかりに、本来劉備に倒してもらうはずだった、五斗米道の張魯に援軍を頼みます。
劉璋軍の思わぬ行動により、劉備軍はまたしても、背後に張魯軍、前には劉璋軍、と挟み撃ち状態になります。しかも困ったことに、張魯軍には一人の強い武将が味方していました。何話か前に出てきた、馬超(ばちょう)という武将です。
曹操を追い詰めたものの、あと一歩のところで取り逃し、かえって曹操軍に追撃されて命からがら本拠地に逃げ帰った馬超は、曹操軍のさらなる追撃を受けて、張魯軍のもとに身を隠していました。
張魯に助けてもらった恩返しにと、今度は劉備軍の前に立ちはだかります。
次回「“张飞战马超”-男の闘い」と題して、馬超と張飛の猛烈な戦いについてお送りします。

2008年09月23日

第五十五回-「“张飞战马超”-男の闘い」

蜀の劉璋の思わぬ行動により、劉璋軍と張魯軍に挟み撃ちにされた劉備は、荊州の諸葛亮の元に援軍を要請します。諸葛亮は荊州の留守を関羽に任せて、張飛、趙雲をつれて益州をめざし出発します。
益州に着いた諸葛亮たちは、さっそく馬超率いる張魯軍と対戦します。馬超の並々ならぬ武力を知っている諸葛亮は、張飛を差し向け、馬超と戦わせます。
張飛と馬超、二人は火花を散らして戦います。二人の武力があまりにも拮抗していたため、勝負はなかなかつきません。三国演義によると日が沈んでからも戦い続けたと書かれています。
二人の闘いの様子を見ていた孔明は、このまま戦い続ければどちらかが敗れて死んでしまうと考えます。なんとかして馬超を味方につけたい孔明は、一人の使者を馬超の元に遣わします。使者は李恢(りかい)という人で、蜀の賢人として皆に敬われていた人でした。李恢は馬超の元に行くとこう言います。
「今日はあなたのお父さんに頼まれてきたのだ。」
お父さんをすでに曹操に殺されていた馬超は???という感じで李恢の話を聞きます。
「あなたの父は誰に殺されたのだ?曹操ではないか!今、あなたが劉備と戦って喜ぶのは誰だ?曹操ではないか!自分の父親の仇を討ちたいと思うならば、劉備に協力するのが道理ではないか?劉備と戦うなどもってのほかだ!」
李恢の言葉を聞いた馬超は、自分の愚かさを認め、劉備に降伏する決意をします。
こうして、馬超は晴れて劉備の部下となったのでした。
この知らせを聞いて、仰天したのは蜀の劉璋です。頼みとしていた馬超が劉備軍に降伏したと聞いて、落胆のあまり卒倒してしまいます。
馬超を加えて、いまや向かうところ敵なしとなった劉備軍は、いよいよ劉璋のいる成都へ進軍します。
では、張飛と馬超の戦いからとられた成語を一つご紹介しましょう。
张飞战马超
双方の力が拮抗している
張飛と馬超が戦って決着がつかなかったことから。
そのまんま、の成語ですが、頭の片隅に置いておいてください。
次回は「ついに!夢にまで見たマイホーム」と題してお送りします。

2008年09月27日

第五十六回-「ついに!夢にまで見たマイホーム」

馬超を加えて、向かうところ敵なしとなった劉備軍は、いよいよ劉璋のいる成都へ進軍します。天才軍師孔明の指揮に加えて、猛将馬超を配下に加えた劉備軍に、劉璋軍はもはや抵抗はできませんでした。
劉璋は正式に劉備に降伏し、劉備はついに蜀の君主となりました。ついに念願のマイホームを手に入れたのです。劉備が、関羽、張飛と義兄弟の約束を交わして実に三十年が経過していました。しかし、孔明を軍師に迎えてからはわずか六年で、地方の町長クラスから一国の主へと大昇進したのでした。まさに孔明の力によるところが大きいでしょう。
益州を支配下に治めた劉備は、首都を成都に定めて、益州と荊州を治めることになりました。現在の四川省、重慶市、貴州省、湖北省、湖南省という、広大な領地を治めることになったのです。
さて、孔明はさっそく、新しい国の憲法、民法、刑法の新設に取り掛かります。孔明は非常に詳細な法律を作り、刑法の適用も厳格に定めます。
孔明があまりに厳格に刑法を適用するのを見かねた、法正という重臣は、孔明にこう進言します。
「蜀の民は、今新しい君主の統治を楽しみにしています。そのような時にあまりに厳しい法律を作れば民の心をつかむことはできないのではないですか?」
それに対して孔明はこう答えます。
「劉璋の政治は、罰を与えるでもなく、いたずらに褒美を与えて、善悪のしっかりとした定めが無かった。だから国が乱れたのだ。今、しっかりと規則を定めて、公平な政治を心がけるなら、民は必ず喜んで従うだろう。」
この孔明の言葉に表れているように、孔明の政治の仕方はまさに公平、そのものでした。
今でも、あるアンケートによると、理想の政治家として、孔明の名前は常に上位に挙がるようです。孔明はどのような政治を行ったのでしょうか?
原書の三国志によるとこうあります。訳すとこうです。
忠誠を尽くして時世に益となるものは例え仇敵であっても必ず賞し、法律を犯して職務に怠慢なるものは例え親戚であっても必ず罰し、いったん罪に服して心を入れ替えたものは例え重篤であっても必ず釈放し、浮辞巧言を弄んで人を惑わすものは例え軽微であっても必ず断罪した。善行があればどんなにわずかなものでも賞しないことはなく、悪行をなせばどんなに小さなものでも処罰しないことはなかった。それで領内では誰もがいくぶんの畏怖を覚えつつもその人となりを愛し、その政治と刑罰とは峻厳な一面があったとはいえ怨嗟が上がらなかったのは、つねに公平無私を心がけて勧善懲悪の裁定がはっきりしていたからである。
いつの時代も人々は公平な政治を望んでいるようですね。今も世の中不公平だらけ、人はなかなか進歩しないものです・・・
さて、次回は「劉備と孫権の仲直り」と題して、蜀と呉の境界線を巡った争いについてお送りします。

2008年09月29日

第五十七回-「劉備と孫権の仲直り」

劉備が蜀を占領したという知らせは、呉の孫権にも伝わります。ところで、孫権と劉備は、荊州(湖北省・湖南省)の賃貸契約を結んでいました。貸主は孫権、借主は劉備です。契約期間はとっくに過ぎていたのですが、孔明の策略によって、呉はいまだに荊州を取り返せずにいました。
孫権はこのときとばかりに、劉備に荊州を返せと迫ります。ところが、またしても返す気などさらさら無い劉備は、孫権の要望をはぐらかします。以前にも紹介しましたが、こんな成語までできてしまいました。

刘备借荆州
借りたまま返さない
劉備が荆州を借りたまま呉に返さなかったことから。

じつはここからの展開は、正史と演義で違いがあるのですが、まずは演義の内容からご紹介しましょう。
なんとか荊州を返してもらいたい孫権は、孔明の兄、諸葛瑾の家族を人質にとり、もし荊州を返さなければ、諸葛瑾の家族がひどい目にあうぞ、と諸葛亮を脅します。兄の家族を助けたい孔明は、劉備に頼み込んで、荊州を孫権に返す約束をしてもらいます。
ところが諸葛瑾が、荊州にいる関羽のところへ行って事情を説明し、荊州を返してもらおうとすると、関羽は“そんな話は聞いていない”といって断られてしまいます。
というわけで、劉備は孫権に荊州を返さずじまい、これが物語の展開です。
一方、正史はというと・・・
孫権から返還要請があった荊州は、劉備にとっても手放したくない土地でした。なぜかというと、荊州を配下に治めていれば、魏の曹操と対抗するときに、益州方面(四川省方面)からと、荊州方面(湖北省方面)の、二方向から魏の首都洛陽(河南省洛陽市)を攻めることができるからです。しかし、借りた土地を返さないわけには行かないので、荊州のうち東の三郡(長沙・桂陽・零陵)を返して引き続き同盟を結ぶ、というものでした。
ひとまずは劉備と孫権の仲直り、といったところでしょうか?
さて、物語に戻りますが、益州を支配下に治めた劉備は、今度は成都から北を目指します。曹操の領地になっていた漢中(陝西省漢中市)を攻略しに出陣します。
次回「おじいちゃんの大活躍」と題してお送りします。

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