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2008年06月 アーカイブ

2008年06月03日

第二十七回−「“百万中子”」

諸葛亮の智謀によって二度までも曹操軍を撃退し、襄陽に逃げこもうとした劉備に、とんでもないアクシデントが襲います。頼りにしていた劉表が急死し、跡継ぎが曹操軍に寝返ったため、劉備一行は行き場を失ってしまったのです。
劉表には二人の子供がいましたが、長男は江夏(こうか:現在の湖北省武漢市)の城を守っていました。それで、劉備一行はなんとか江夏まで逃れようと道を急ぎます。ところが曹操軍の激しい追撃が始まり、劉備軍はちりぢりになってしまいます。
そんな中、劉備の部下、趙雲は、劉備の妻や子供を守る役目を言いつけられていました。しかし、混乱の中、趙雲は劉備の妻や子供の姿を見失ってしまいます。
趙雲は見失った劉備の妻一行を見つけようと、曹操軍百万の中に突っ込んでいきます。そしてやっとのことで劉備の妻と子供を見つけます。しかし、劉備の妻は大ケガをしていました。彼女は自分が足手まといになっては、と三歳の子供を趙雲に預け、自分は古井戸の中に身を投げて自殺してしまいます。下の写真がその井戸です。
Sanguo27-1.jpg
趙雲は、残された三歳の子供(名前は阿斗)を鎧の中に抱き、曹操軍百万の中を、たった一人で駆け抜けます。そのときの趙雲の活躍を評して、今回の題にある成語ができました。
百万军中赵子龙(百万の敵軍の中の趙雲:子龍というのは趙雲の字(あざな))
意味:天下無双の英雄
由来:趙雲が長坂坡で、敵軍百万の中から阿斗を救い出したことから。
今でも、その場所には趙雲の石碑が立っています。
Sanguo27-3.jpg

こうして、趙雲の大活躍によって、劉備の跡継ぎの阿斗(あと)は、無事父親の元にたどり着くのでした。
趙雲が子供を抱っこしながら、百万の敵軍の中を突破するこの場面は、三国志の中でも一、二を争う名場面だと思います。
さて、次回はこんな大活躍をした趙雲の素顔に迫ってみたいと思います。

2008年06月07日

第二十八回−「スーパーサブ趙雲」

百万の曹操軍の中をたった一人で突破した趙雲について、詳しくお話したいと思います。この趙雲という男、もともとは劉備と交友のあった公孫瓚(こうそんさん)という武将の部下でしたが、公孫瓚が袁紹(えんしょう)に滅ぼされてから、どこからの誘いも受けず、ただ劉備に仕えたいと、劉備の下に来た武将です。
彼は、正史三国志と、三国演義では、少し違った評価を受けています。もちろんどちらも、趙雲を武芸の達人、冷静で、忠実な武将として描かれていますが、正史では、劉備のガードマン的な存在として描かれているのに対し、演義ではさらに、関羽、張飛と並ぶ蜀軍の大黒柱として描かれています。
そんな趙雲の能力値を見てみましょう。

Sanguo_nouryoku_28.jpg

 趙雲  統率  武力  知力  政治  魅力 
 能力値     98      103       86       78       95  

ご覧のとおり、非常に高い能力をもっていますね。数字に表れていない部分ですが、彼は三国志の登場人物の中でも珍しく、これといった失敗をしていない武将で、彼の指揮した部隊が負けたりすることはありませんでした。趙雲が高い武力と統率力、適切な判断力を持っていたことによると思います。
こんな優れた趙雲を部下に迎えられたことは、劉備にとって大きな喜びでした。それを表した歇后语があります。
刘玄德得了赵子龙(劉備が趙雲を得る:子龍は趙雲の字〔あざな〕)
→甭说多高兴(その喜びは語るまでも無い:甭beng2は不用の合音)
意味:趙雲は智勇兼備で忠義心に富む名将。そんな趙雲を得た劉備の心情を説いた。

この趙雲の活躍によって、劉備の子供の阿斗(あと)は、百万の敵軍の包囲を突破し、無事劉備の下にたどり着いたのです。
さて次回は、劉備軍のその後の行方を「一人で百万人を震え上がらせた男」と題してお送りします。

2008年06月10日

第二十九回−「一人で百万人を震え上がらせた男」

前回の続きですが、趙雲が百万の敵軍を突破して、劉備の下にたどり着いた時、趙雲は抱いていた阿斗を劉備に差し出します。さてその時、劉備の取った行動は次のうちどれでしょう?
①息子を危険な目に合わせた趙雲を怒る
②妻を自殺させてしまったことで趙雲を怒る
③息子を草むらに放り投げる
答えは③の「息子を草むらに放り投げる」です。どうしてでしょう?
劉備はこう言います。「趙雲のような優れた部下はこの世に二人としていない。その優秀な部下をこの子のために戦死させるところだった。まして子供の泣き声は父の気持ちを弱めさせる。だから放り投げたのだ。」
何とも部下思いの言葉ですね。このことからこんな成語ができました。

刘备摔阿斗(劉備が阿斗を放り投げる)
意味:人の心を買収する。見せ掛けで人気をとる。
趙雲が阿斗を救い出し劉備に差し出したときに、劉備が阿斗を投げ捨てたことから。

成語の意味は、ビミョーな感じですが、劉備は部下の忠誠心をグッと引き寄せることができました。
この劉備の言葉に趙雲は感激し、その感激の言葉の一部も成語になっています。

“肝脳地にまみるとも、このご恩は報じ難し”
肝脑涂地(内臓や脳が地に流れる)
意味:惨い死に方をする→命を投げ出す
阿斗を救い出した趙雲に対し、劉備がこの上ないほめ言葉を趙雲にかけた。それに答えて趙雲が「肝脳地に塗れるとも、このご恩は奉じ難し」と答えたことから。
この主君のためなら命を投げ出してもかまわない、趙雲はそう誓ったのでした。 さて、こんな感動的なやりとりがなされていたころ、趙雲を追いかけてきた曹操軍はついに劉備軍に追いつきます。しかし劉備軍は橋を渡って川の向こうに行っていました。そしてその橋の手前には、張飛がただ一人で曹操軍を待ち構えていました。下がその場所です。現在は橋が無く碑だけが建っています。 %E5%BC%B5%E9%A3%9B%E9%95%B7%E5%9D%82.jpg

張飛はこの場所で、曹操軍百万を前にして大声でこう叫びます。
「我こそは劉備の弟、張飛翼徳。命がいらないものからかかって来い!」
そのあまりの迫力に、曹操軍は誰一人として張飛に近づくことはできませんでした。こうして劉備軍は無事、夏口(現在の湖北省武漢市)まで逃げおおせることができ、九死に一生を得るのでした。
しかし一時的に難を逃れたとはいえ、曹操軍百万をまともに相手できるほどの兵力はありません。そこで孔明は、呉の孫権と同盟を組み曹操に対抗する策を進言します。一方、呉の孫権は、曹操から降伏を勧められ、降伏するか、戦うか、迷っていました。
そこで孔明は、様子を探りに来た呉の軍師、魯粛(ろしゅく)と共に呉へ渡り、孫権を味方につけようと説得に向かいます。
次回「孔明から学ぶ口説きの奥義-その1」と題してお送りします。

2008年06月14日

第三十回−「孔明から学ぶ口説きの奥義−その1」

曹操から降伏を勧められ、降伏するか、戦うか、迷っていた呉の孫権のもとに、孔明が到着します。劉備軍だけで曹操と戦うのは難しいと判断した孔明は、孫権を味方につけようと考えました。
その頃、呉の国は曹操に降伏しようとするグループと、最後まで戦おうとするグループの二つが争っていました。
そこで孔明は降伏派の人々を黙らせようと、策略を胸に秘めて呉へ向かいます。そのときの孔明の様子からも歇后语が生まれています。

诸葛亮过长江(諸葛亮が長江を渡る)
胸有成竹(胸に成算あり・予め考えている)

また、こんなのもあります。
诸葛亮下东吴(諸葛亮が東呉へ行く)
心里有数(自信あり)

孔明が呉の孫権と同盟と結ぶため、自ら長江を下り、説客として東呉へ赴いた逸話から生まれた。

こうして呉に着いた孔明は、孫権と会う前に、降伏をしたいと思っている大臣たちと論戦をすることになります。
まず呉の大臣、張昭(ちょうしょう)が孔明にこう言います。
「名軍師と評判のあなたがついていながら劉備殿が曹操軍にボロ負けしたのはそういうわけですか?」と皮肉たっぷりに尋ねます。
孔明は答えます。
「たしかに劉備様は曹操軍から逃げてきました、しかしただ逃げてきたわけではなく十万の兵士を二度も敗走させました。さらに劉備様を慕う民百姓が共に行軍し逃げるスピードが遅れ、やむなく一時的に避難しましたが、これは劉備様が民に愛されていることを証明するものです。そこには劉備様の広大な計画があるのです、たった一つの敗戦に注目して事の全体が見えないとは、あなたも世の中を見る目が無いですね」と言い返します。
続いて別の大臣、虞翻(ぐほん)がこう言います。
「曹操軍に負けて逃げてきたあなたが、曹操軍など恐れるに足りないと言って、呉に開戦を勧めるのは矛盾している」
孔明は答えます。
「わが劉備軍の兵士はみな仁義の兵です。負けるとわかっていて戦うのは賢いことではありません。一方あなた方、呉の軍勢も仁義の兵、しかしそれを指導する立場のあなた方が、自分の身の安全を第一に考え、勝てる戦いをせず、主君の孫権様に降伏を勧めるなど、恥ずかしいとは思わないのですか?」
こうして孔明は、皮肉の混じった質問に、次から次へと流れるように答え、やがて呉の大臣たちは何も言えなくなってしまいます。こうして降伏を考えていた大臣たちはしぶしぶ孔明と孫権の会見を見守るしかなくなってしまいました。
次回は「孔明から学ぶ口説きの奥義その2」と題して、孔明と孫権の会見について解説したいと思います。

2008年06月17日

第三十一回−「孔明から学ぶ口説きの奥義−その2」

並み居る大臣を論破した孔明は、孫権との会見に臨みます。大臣の前では開戦を主張した孔明でしたが、孫権の前では主張をするのでしょうか。
まず、孔明は孫権の性格を見極めます。孔明は孫権の性格を見抜き、「孫権は感情が昂ぶり易く、少し負けず嫌いなところがあるようだ、そこを攻めてみよう」と心のうちでつぶやきます。
孫権は孔明と少しの雑談を交わしたあと、孔明に尋ねます。
「呉は曹操と戦ったほうがよいか?やめたほうがよいか?」
孔明は答えます。
「降伏するのが一番よいでしょう。それが一番楽な方法です。」
孫権はむきになって答えます。
「では、なぜあなたは劉備殿に降伏を勧めないのか?」
孔明は、
「我が劉備様は漢帝国の親戚筋に当たる方、しかも民から慕われています。一時的に曹操に敗れたとはいえ、劉備様が曹操に降伏することなどありえません。」
この言葉を聞くと、孫権は怒って席を立って帰ってしまいました。周りで見ていた大臣たちは、孔明は失敗したものと思って、心の中で喜びます。
しかし、孔明を孫権に推薦した重臣の魯粛は、一人心配して孔明にこう言います。
「どうしてあんな言い方をしたのですか?あれでは孫権様が怒るに決まっています」
孔明はこう答えます。
「孫権様の度量を試したまでのことです。しかしあれでは曹操には勝てません。もう一度私と話をしていただければ曹操軍に勝つ作戦をお話します。」
この孔明の言葉を、魯粛は孫権に伝えます。孫権も自分の度量の無さを恥ずかしく思い、もう一度孔明と話をすることにします。
孔明は孫権を説得してこう言います。
「曹操軍は百万とは言うものの、実際は八十万ぐらいです。しかもそのうちの四十万はつい最近曹操に降伏した兵士ばかり、曹操のために命をかける兵士は少ないのです。しかも彼らは黄河の北から遠征できているので相当疲労がたまっているはずです。さらに水上での戦にまったく慣れていないので、水上での戦いに持ち込めば、必ず勝てます。」
孫権は、もともと曹操には降伏したくないという気持ちがあったので、ついに曹操と戦う決心をします。
ところが、それを聞いた重臣たちは、大慌てで孫権の下に駆けつけ、内政の責任者、張昭は涙ながらに孫権に訴えます。心の優しい孫権はまたしても迷ってしまい、戦うか戦わないか、悩み続けます。
そんな時、見るに見かねた孫権の母親が孫権にこう言います。
「お前の兄、孫策(そんさく)の遺言を忘れたのですか?“国内の難題は張昭に聞け、国外の難題は周瑜に聞け”と言っていたではありませんか?」
孫権は、兄の言葉を思い出します。
周瑜、とは今は亡き兄の孫策の親友で、呉の水軍の総責任者を務めている人でした。周瑜は今、鄱陽湖(現在の江西省九江近くの湖)で水軍の調練をしていました。
孫権は早速、周瑜を呼び出し、周瑜の意見を聞くことにしました。
次回は、物語を一休みし、孫権の重臣、魯粛と諸葛瑾という二人の人物についてお話したいと思います。

2008年06月24日

第三十二回-「魯粛と諸葛瑾」

今回は、少し物語をお休みして、呉の重臣、魯粛と諸葛瑾についてお話したいと思います。二人とも呉には無くてはならない存在で、穏やかな性格で知られていました。
諸葛瑾は、名前を見てお気づきの方も多いと思いますが、諸葛孔明の兄です。諸葛瑾もずば抜けた政治手腕を持っていて、しかも温厚、誠実、謙虚で孫権の信頼も厚かったといわれています。
弟の孔明が、蜀の軍師という立場にあったため、同僚からはしばしば、裏切るのではないかと疑われることもありましたが、孫権はそんな人の意見には耳を貸さず、誠実な諸葛瑾を大いに信頼していました。
諸葛亮、諸葛瑾には従兄弟がいて、名を諸葛誕といいました。諸葛誕は魏に仕えたのですが、この三人を比較して次のような言葉がありました。

“蜀は龍を得た、呉は虎を得た、魏は犬を得た”

三人の能力を評価して言われた言葉のようです。諸葛誕は犬という、悲惨な評価がついていますが、諸葛瑾は、龍にはかなわないものの、虎という高い評価を受けています。
諸葛瑾はある時、弟孔明に、自分と一緒に呉に仕えないか?と誘いの言葉をかけます。その時に孔明は“私が蜀を裏切らないのは、お兄さんが呉を裏切らないのと同じです”と答え、諸葛瑾はあきらめた、といわれています。
さて、もう一人の人物、魯粛についてお話しましょう。三国演義の中では、魯粛は、孔明の智謀にただただ舌をまく、すこしおマヌケな人物として描かれてしまっていますが、実際の魯粛は、非常に高い政治手腕を持った有能な人物でした。
魯粛が誰に仕えるか悩んでいたときに、先に呉に仕えていた友人の周瑜から誘いを受けます。その時の言葉から成語が生まれています。
纳奇录异
賢人志士を大事にして特異な人材をよく受け入れること。
周瑜が、誰に仕官するか悩んでいた魯粛に「わが主君は、賢者に親しみ立派な人物を尊重して、非凡な才能をもつ者たちを任用しています」と、孫権を紹介したことから。

こうして魯粛は呉に仕えるようになりました。
ただ、先ほども書きましたが、三国演義の中では孔明の引き立て役に終わってしまっているため、これといった見せ場も無く、可哀相な役回りになってしまっています。これも演義と史実の違いというところでしょうか?
次回は「三国一のイケメン周瑜」と題して、呉の総司令官、周瑜について詳しくお話したいと思います。

2008年06月27日

第三十三回-「三国一のイケメン周瑜」

今回は呉の総司令官、周瑜について詳しくお話したいと思います。
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この周瑜という男、かなりのイケメンで、美周郎というあだ名がついていたそうです。若い時から孫権の兄、孫策に仕えて、孫策とは非常に仲がよく、その仲の良さは「断金の交」と呼ばれていました。切ろうとしても切れないほどの堅い結びつきという意味ですね。
しかし、孫権の兄孫策は、若くして病で死んでしまいます。周瑜は若くして跡を継いだ孫権を支え、呉の水軍の総司令官を務めていました。
では周瑜の成績表を見てみましょう。
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 周瑜  統率  武力  知力  政治  魅力 
 能力値     99       78       95       89       91  

  得意教科    体育    音楽    -    -  

非常に優秀な人だったようですね。周瑜は水軍を自分の思いのままに指揮して操ることができたようです。しかも諸葛亮に勝るとも劣らない頭脳の持ち主でした。
しかし、三国演義の中では、孔明の知力を引き立てるために、孔明の知力に翻弄されて彼をねたむ、という可哀相な設定になってしまっています。このあと詳しくお話しますが、曹操軍を打ち破った赤壁の戦いも、史実では周瑜の指揮した水軍の活躍で勝利したことになっていますが、三国演義では諸葛亮の智謀に助けられた周瑜が、諸葛亮の予言どおりに勝利を収める、という設定になっています。
さて、周瑜は音楽も得意だったようです。当時こんな言葉がはやりました。
“曲に誤りがあると、周郎がふりかえる”

誰かが楽器を奏でていて間違いがあると、周瑜はふり返って「今のところは音がずれていたよ」と注意していたようです。イケメンで音楽上手、今生きていたら売れっ子ミュージシャンになっていたかもしれませんね。
さて、そんなイケメン周瑜には、美人の奥さんがいました。次回「みんなメロメロ-三国時代の叶姉妹」と題して、周瑜の妻と、周瑜に開戦を決意させた諸葛亮の巧みな話術についてご紹介したいと思います。

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