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2008年05月 アーカイブ

2008年05月02日

第十八回−「もしかしてニート?劉備」

ニートが増えている近頃ですが、ニートの問題は今に始まったものではないようです。実は三国志時代に始まりました。初代ニートは、“劉備”です。
なにをやらせてもだめな劉備は、曹操にボロ負けした挙句、遠い親戚の家に転がり込みます。親戚の名は“劉表”、当時の荊州(現在の河南省の南部・湖北省・湖南省)を治めていた人でした。“劉備”の境遇を可哀相に思った劉表は、一つの城を劉備に与えます。なんとも贅沢な話ですね。
劉備は“新野(しんや)”という町(現在の河南省南陽市新野県)を与えられそこで優雅な暮らしをしていました。
しかし、劉備は、戦いに明け暮れていた昔を思い出し、途方にくれていました。「なんで自分はこんな惨めな生活をしているんだろう」自分にがっかりしていました。若くして故郷を離れてから20年以上がたっていました。ブログが始まってまだ十八回なのに、実はこのとき劉備はすでに47歳、いい年したオジサンになっていました。
そんな時、劉備はふと自分のフトモモをさわり、ビックリします。ぶよぶよ肉がついている!メタボになってしまったのでした。
この劉備の驚きから来た成語があります。

髀肉复生(フトモモの肉がついている)
意味:活躍する機会の無い事を自ら嘆く。安逸な生活を送り、為す所の無い様。

日本では髀肉(ひにく)の嘆、といいますね。馬に乗って戦場を駆け巡ることが無く、股に肉がついた事を嘆いたことから来た言葉です。
このままではまずい!と思った劉備は、にわかに土地の著名人に会いに行きます。著名人の名は“司馬徽(しばき)”、当時は名の知られた学者でした。
この世の苦しみを取り除きたいけど、なにしろ自分では力不足、どうしたらよいでしょう?とお伺いを立てます。それに司馬徽はこう答えます。
「臥龍(がりゅう)か鳳雛(ほうすう)か、どちらかを部下に迎えれば天下統一は夢ではないだろう。」
劉備はたずねます。
「臥龍(がりゅう)、鳳雛(ほうすう)とは誰のことですか?」
しかし、司馬徽はこれ以上は答えてくれませんでした。ちなみに臥龍(臥龍)とは、地に伏して隠れている龍、鳳雛(ほうすう)とは、鳳凰(ほうおう)の雛(ひな)、龍も鳳凰も、皆さんご存知のように中国の伝説上に生き物ですが、要は、才能を隠し持っている、隠れた大賢人の事を指した言葉です。
その日以降、劉備は、隠れた賢人がいないものかと、辺りを捜し始めました。そんなある日、一人の人物に会います。その人物の名は“単福(ぜんふく)”、賢人の雰囲気が漂っていました。劉備は“もしや”と思い、彼を部下に迎え軍師として任命します。単福は早速、劉備の軍師として才能を発揮し、軍を整えていきます。
そのころ、曹操はそろそろ荊州に攻め込もうかと考えていました。こうして曹操軍と劉備軍は対決することになりました。
次回、「卧龙凤雏」と題して、戦いの様子と、“臥龍鳳雛”の正体をご紹介したいと思います。

2008年05月06日

第十九回−「「」

有能な社員を募集していた社長“劉備”は、あちらこちらと優秀な人材を捜しに出ていました。前回お話したように、街でスカウトした“単福”という人物を軍師として迎え、曹操の侵攻に備えていました。
そんな時、ついに曹操は劉備の息の根を止めようと、親族の曹仁(そうじん)を総大将とした3万の兵を、劉備に差し向けました。対する劉備軍はわずか5千人、とても勝ち目はなさそうでしたが、軍師“単福”の巧みな采配で勝利し、曹操軍を撃退します。
曹仁は命からがら曹操の下へと逃げ帰ります。軍が大敗した事を聞いた曹操は、首をかしげます。

「劉備は戦いが上手ではないはず、なぜ曹仁が負けたのだろう?」

そこで曹操は曹仁にこう尋ねます。
「劉備軍の中に、新たに軍に加わって劉備を助けたような人物はいなかったか?」

曹仁は答えます。
「たしか、単福という者が軍師として采配をとっていたようです。」

曹操は再び首をかしげます。単福という名前を聞いたことがないからです。そこで曹操軍の軍師だった程昱(ていいく)という人物が答えます。
「単福は私の幼馴染です。単福とは偽名で、本名は徐庶(じょしょ)といいます。」

そこで曹操は程昱に尋ねます。
「おまえと徐庶を比べたらどちらの方が優秀か?」

程昱は答えます。
「徐庶の能力を10とすれば、私はせいぜい2か3くらいでしょう。」
優秀な人物を劉備に採用されてしまった曹操は、なんとかしてヘッドハンティングしなければと策略をめぐらします。
その策略とは、母親に偽手紙でした。曹操は徐庶の幼馴染の程昱を通して母親の手紙を手にいれ、筆跡を真似て、母親から徐庶への偽手紙を作ったのです。そこにはこう書かれていました。
「今、お母さんは曹操に捕まっているんだ、早く来て助けてくれ」

その手紙を受け取った徐庶は、いてもたってもいられず、劉備に辞職願いを出しに行きます。それと共に自分が偽名を使っていたことを謝り、たとえ曹操軍に加わるとしても決して策略を提案したりはしない、と約束します。
こうして徐庶は、劉備の下を去ることになりました。その別れ際に徐庶は劉備にこう言います。
「この近くに、一人の大賢人が住んでいます。私の代わりに彼を軍師として迎えてください。そうすれば彼は必ず劉備様の助けとなるでしょう。彼の名は諸葛亮(しょかつりょう)、字は孔明(こうめい)、人々は彼のことを臥龍先生と呼んでいます。」
その言葉を聞いて、劉備は、前回の話で出てきた“臥龍鳳雛”の話を思い出しました。それで徐庶に尋ねます。
「では、あなたが鳳雛なのですか?」

徐庶は答えて
「鳳雛とは、庞統(ほうとう)字は子元(しげん)という人物のことです。」

こうして、劉備は“臥龍鳳雛”の正体を知りました。
いよいよ次回は、諸葛亮孔明の登場です!次回「三回目のプロポーズ-劉備の猛烈アタック」と題してお送りします。

2008年05月09日

第二十回−「三回目のプロポーズ-劉備の猛烈アタック」

前回ご紹介したように、徐庶と別れた劉備は、なんとか諸葛亮を部下に迎えたいと思い、自分で諸葛亮を捜しに行きます。やっとの思いで諸葛亮の家にたどり着きます。しかし残念なことに諸葛亮は友達と旅行に行っていて留守でした。当時は電話もないのでアポをとるなんて事はできなかったんですね。
しばらくたってから、ある冬の寒い日、劉備はもう一度諸葛亮の家を訪ねます。しかしまたしても諸葛亮は留守でした。
春になってから、劉備はもう一度、諸葛亮の家を訪ねます。今度は諸葛亮が家にいるようです。喜んで劉備は中に入ります。しかし諸葛亮は昼寝の最中でした。劉備は起こしては申し訳ないと思い静かに諸葛亮が起きるのを待つことにしました。
ようやく昼寝が終わった諸葛亮は、劉備が庭で待っているのを知り、劉備を招き入れます。こうして劉備は三回目の訪問でやっと諸葛亮と会うことができました。
この出来事から取られた言葉があります。

三顾茅庐
礼を尽くして人を迎える。
劉備が諸葛亮を三回訪ねて、軍師に招いたことから。

日本では“三顧の礼”という言葉がよく知られているようです。こうして劉備は諸葛亮を軍師として迎えることができました。諸葛亮を部下に迎えて以来、劉備はこれまでの苦労がウソのように次々と領土を広げ最終的に皇帝になります。
諸葛亮が最初に劉備に提案した作戦は、劉備の政治の方針になりました。それは“天下三分の計”というものです。
今でもそうですが、中国という国は一人の皇帝が治めるにはあまりにも広すぎる、そう考えた諸葛亮は“三つの国で中国を分割すればよい”と考えます。二つの国だとけんかが始まるが、三つの国だとお互いに様子を見ながら、争いになることはない、と考えたのです。まあ、わかりやすく言うと、じゃんけんのグー、チョキ、パーの原理ですね。日本では三つ巴(みつどもえ)とも言いますね。
劉備と諸葛亮はこの理念に基づいて行動します。当時曹操はかなりの領地を持っていて、呉の孫権も自分の領土を持っていました。曹操、孫権と争うのはムリと考えた諸葛亮は、まだ誰も手をつけていない益州(現在の四川省)を本拠地として国を作れば、曹操と孫権に対抗できると考えました。
諸葛亮を軍師に迎えてからわずか10年後、まさに諸葛亮の作戦通り、中国は三つの勢力に分割されます。
ということは、もし諸葛亮がいなかったら、そもそも“三国志”という歴史は無かったというわけです。諸葛亮の偉大さがわかりますね♪⌒ヽ(*゜O゜)ノ スゴイッ!!!
では次回は「天才!“三个臭皮匠,赛过诸葛亮”」と題して、諸葛亮にまつわる成語など、諸葛亮個人についてお話したいと思います。

2008年05月13日

第二十一回−「天才!“三个臭皮匠,葛亮”」

三国志の中でも、最も人気があるのが、この諸葛亮です。中国人が「諸葛亮」と聞いて真っ先に連想するのが、天才、頭がいい、ということなんです。三国志の中では、諸葛亮=(イコール)知恵、という構図が出来上がっています。
今回の題になっている“三个臭皮匠,赛过诸葛亮”という言葉もそれを表しています。日本で言えば“三人寄れば文殊の知恵”ということわざに当てはまる言葉ですが、平凡な革職人でも三人集まれば諸葛亮のような知恵を出すことができる、ということわざです。
というわけで、恒例の成績表を見てみましょう。

 諸葛亮  統率  武力  知力  政治  魅力 
 能力値     93       51      108       98       96  

Sanguo_nouryoku_21.jpg


  得意教科    国語    算数    理科    社会    図工  


文句の付け所が無い優等生ですね!知力はなんと108!ケタはずれですね。得意教科はほぼ全部、何をやらせても上手にするんでしょうね~こういう人は。クラスに一人はいましたね、こういう同級生。さらに図工も得意のようです。諸葛亮は発明も得意で、さまざまな機械を発明したといわれています。
前々回で、劉備に諸葛亮を紹介した徐庶という人は、曹操に「諸葛亮とはどんな人物か?」と聞かれたとき次のように答えました。
“上は天文に通じ、下は地理民情をよく悟り、六韜(りくとう)を諳んじ、三略(さんりゃく)を胸にたたみ、その神算鬼謀(しんさんきぼう)、世の常の兵家ではありません”
六韜(りくとう)というのは中国の兵法書の一つです。“韜”は、包み隠すという意味があるようです。文、武、龍、虎、豹、犬の6巻、60編から構成されています。受験勉強の参考書などで“虎の巻”という言葉がよく使われていますが、実はここから来た言葉なんですね。
三略(さんりゃく)も同じく兵法書で、上略、中略、下略の三巻からなっています。
ようするに、“彼は何でも知ってるよ”“歩く辞典だよ”というわけですね。一度でいいからそう呼ばれたいですね~。
神算鬼謀(しんさんきぼう)というのは、ぴたりと当たる推測、巧妙な計画のことを指す言葉です。中日辞典にも載っていますよ。
ということで、とにかくすごい人だったわけです!
諸葛亮にまつわる故事成語はたくさんありますが、それは後ほど紹介するとして、次回は、以前リクエストをいただきました、諸葛亮と、春秋戦国時代の有名な“韓信”という人物について、比較してご紹介したいと思います。

2008年05月16日

第二十二回−「韓信の股くぐり」

今回は以前リクエストのありました、春秋戦国時代の武将“韓信”と三国志の英雄、諸葛亮の比較を行ってみたいと思います。筆者の独断や偏見が入るかもしれませんがご了承ください。ヾ(^-^;) ゴメンゴメン
“韓信”というのは、春秋戦国時代、紀元前200年ごろの武将で、前漢帝国の初代皇帝、劉邦に仕えていた人物です。“劉邦”といば、“項羽と劉邦”とセットで耳にすることが多いのではないでしょうか?その時代に生まれた有名な言葉としては“背水の陣”“四面楚歌”などがありますね。
項羽と劉邦の戦いでは、初めは圧倒的な強さを誇っていた項羽が、最終的には、民衆の支持と優秀な部下を得た劉邦に敗れ、劉邦が漢帝国を築くという結末になります。
お気づきの方も多いと思いますが、三国志の主人公“劉備”は、この“劉邦”の末裔です。
さて、この“劉邦”を助け、“劉邦”の勝利を決定付けた名将が“韓信”です。
韓信は若い頃、貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという生活をしていました。
ある日のこと、町の少年が韓信をバカにしてこう言います。
「お前は背は高くて、剣を持ってはいるが、本当は臆病なんだろ!?その剣で俺を刺してみろ!出来ないなら俺の股をくぐれ」
すると、韓信は黙って少年の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑いました。この逸話を韓信の股くぐりといいます。意味は“大きな志を持った者は、ささいな恥辱を意に介さない”というものです。大いに笑われた韓信でしたが「恥は一時、志は一生。」と言ったそうです。
このあたりは、ぜひ見倣いたいところですね。
そんな韓信は劉邦に仕えますが、たいした役職にはつくことができませんでした。ところが軍事の責任者だった“蕭何”という人物は韓信の才能を見抜き劉邦に推薦します。蕭何は、韓信を劉邦に推薦するときにこう言いました。
「彼は国士無双です」
この“国士無双”という言葉、マージャンの役の名前ですが、もともとは韓信のことを評価した言葉なんです。“国に二人といない優れた人物”という意味です。
韓信は劉邦の下で、数々の戦いに勝利し、王という立場になります。皇帝よりは下ですが、かなりエライ人ですね。
しかし、ひょんなことで劉邦の機嫌を損ねた韓信は、王の地位を剥奪されてしまいます。待遇に不満を持った韓信は、やがて劉邦を憎み、自分が劉邦の代わりに皇帝になりたいと思うようになります。
しかし、韓信の怪しい動きを察知した、総理大臣の“蕭何”は、偽情報で韓信を呼び出します。自分を劉邦に推薦してくれた蕭何を信じきっていた韓信は、まんまとだまされ、蕭何に逮捕され、処刑されてしまいます。
韓信は確かに能力の優れた人物でしたが、最終的に権力に目がくらんで、災いを身に招いてしまったようです。能力があるだけではダメっていうことですね。人間大事なのは心ではないでしょうか?諸葛亮は能力も高い人でしたが、人格面でもすばらしく、後ほど出てきますが、皇帝になるチャンスがあったにもかかわらず、そんなことは夢にも思わず自分の主君を支えました。ぜひ見倣いたいものです。
ちなみに、後ほどご紹介しますが、諸葛亮は、原書三国志の中で“政治手腕は漢の蕭何に匹敵する”と言う評価を得ています。
さて、今回は少し三国志と違う時代のお話でしたが、次回はまた三国時代に戻り、「中国初のマジシャン?空飛ぶ孔明」と題して、諸葛亮にまつわる成語やエピソードをさらにご紹介していきたいと思います。

2008年05月20日

第二十三回−「中国初のマジシャン?空飛ぶ孔明」

皆さん手品はお好きでしょうか?最近はよくテレビでもマジックを見ることができますね。さて、中国で初めてマジックをした人は誰だか知っていますか?そう、諸葛孔明です!といっても物語の中での話ですけどね・・・
三国志演義の中で、諸葛孔明は怪しげな術を使う人として描かれています。実際にはそんなことができるわけは無いのですが、それがまた物語を面白くし、諸葛亮を偉大な人物として持ち上げているわけです。中国の民間伝承に、諸葛亮にまつわる多くの記載があるようです。例えば・・・
孔明の娘は雲に乗って天に昇った-朝真観記記事
また、孔明は戦いのとき食料を運ぶために、“木牛流馬”という、今でいう人力車と自転車の中間のようなものを創ったのですが、それについては・・・
“木牛流馬”は自動機械で、人の力を用いずひとりでに走った-戎州志
おいおい、今の車より進んでるぞ!ってかんじですね。
また、
彼は時計も作った、その時計は、毎更(一時間ごと)に鼓を鳴らし、
三更になると、鳥の声を三唱する-華夷考
世界初の目覚まし時計か!すごいですね~
孔明の使った釜は今でも水を入れるとひとりでにすぐ沸く
ティファールもビックリですね!
こういった言い伝えが今でもあるようです。このように孔明は中国国民には神仙視されているわけです。
もちろん、実際の孔明はこんな人であったわけではありません、三国志演義の記述とは裏腹に、正直で、実直、裏表の無い政治家として三国志の原書の中では評価されています。
これから、三国志の物語を書き進めていきますが、物語の部分では孔明のスーパーマンぶりを、物語のとおり書いていきたいと思います。そして、時折、実際の孔明像を解説する場面も入れていきたいと思います。
さて、次回は「まねするな?孔明の嫁選び」と題して、孔明の奥さんについてお話していきたいと思います。

2008年05月23日

第二十四回−「まねするな?孔明の嫁選び」

今回は、孔明の奥さんについてお話したいと思います。奥さんに関係する歇后语がありますのでまずはそれからご紹介しましょう。

诸葛亮招亲(諸葛亮の婿入り)→才重于貌(容姿より才能)

うーん、微妙な成語ですね~。この言葉のとおり、孔明の奥さんはあまり美人ではなかったようです。そのことを周りの人が面白おかしく、“真似するな、孔明さんの嫁選び”と噂をしていたようです。
奥さんの名前は黄月英(こうゆえいん)といいます。地元の名士、黄承彦(こうしょうげん)の娘で非常に賢い女性でした。
孔明と月英はとても仲のよい夫婦だったといわれています。孔明がお嫁さんを選ぶにあたって重視したのは、外見ではなく内面だったようですね。賢いだけではなく気立てのよい女性だったようです。
もう一つ歇后语があります。
诸葛亮要丑妻(諸葛亮が醜い妻を求める)→为事业着想(事業のためを思って)

これまた、うーん、という成語ですが、女性の読者の皆さん怒らないでくださいね。醜い、というのは言い過ぎですよね。まあたしかに結婚は一大事業ですが、孔明は賢くて気立てのよい黄月英という女性に惹かれたようです。
周りの人がなんと言おうと、本人たちが幸せであればそれが一番!孔明と月英は仲良く暮らしていたのでした。
そんな賢い奥さん月英さんがいたからこそ、孔明も劉備のために一生懸命に尽くせたのかもしれません。家ではゆっくりくつろげたことでしょう。
しかし諸葛亮夫妻は、子供には恵まれなかったようで、孔明が四十歳を過ぎてから、やっと男の子が生まれます。子供の名前は“諸葛瞻(しょかつせん)”、父と母に似て、幼いころから賢く、とてもよくできた男の子だったそうです。まさに“有其父必有其子”ですね!
さて、次回は「“如鱼得水”-仲良し劉備と孔明」と題して、いよいよ孔明を交えての物語を書き進めていきたいと思います。

2008年05月28日

第二十五回−「“如得水”-仲良し劉備と孔明」

諸葛亮が劉備に部下として迎えられてからというもの、劉備と諸葛亮は、食事も一緒、寝る部屋も一緒、まるで夫婦のように?仲良く過ごしていました。
そんな様子を見た、関羽と張飛はおもしろくありません。劉備に、“仲良くしすぎ!”とグチをこぼします。そこで劉備は、次のように答えます。

“私が孔明を得たのは、魚が水を得たのと同じだ”

この劉備の言葉から、日本で言うと“水魚の交わり”ということわざが生まれました。
“如鱼得水”
意気投合できる人物にあう
水を得た魚のように、息の合ったコンビということでしょうか。
さて、諸葛亮が劉備の部下として迎えられたというニュースは、魏の曹操のところにも届きました。そこで部下の夏侯惇(かこうとん)という将軍に十万もの大軍を授けて、劉備討伐を命じます。
一方、劉備の軍隊はわずか五千!十万対五千ではかなうはずもありませんが、ここから孔明の超人的な采配が炸裂します。
孔明が目をつけたのは二つ、夏侯惇の性格と、敵軍が通る道路でした。夏侯惇はとても強い武将でしたが気が短く、すぐに怒るという性格でした。また、敵軍が通る道は狭くて長い、くねくねした道でした。
まず孔明は、兵士500人を趙雲に任せます。趙雲は夏侯惇と一騎討ちをし、途中で負けたフリをして逃げてくるようにと命じられます。負けたフリをした趙雲は細いくねくね道に逃げ込み、夏侯惇と十万の兵士は後を追ってその細い道に入ってしまいました。十万の兵士とはいえ、細い道に入ってしまえば隊列を組めず、思うように戦うことができません。
十万の兵士がすべて細い道に入ったころ、後ろの方で火の手が上がりました。張飛の指揮する1500人の兵士が、敵軍の兵糧(ごはん)に火をつけたのです。実は兵糧を運ぶ軍隊は、部隊の一番後ろを歩いていますが、どちらかというと体より頭に自信がある人が多く配置されているため、戦いになるとメッキリ弱くなるのです。弱い兵糧部隊は、張飛にあっという間に食料を焼き払われてしまいました。
また、関羽の指揮する1500人の兵士は敵軍の中ほどに攻撃を仕掛け、側面から不意打ちを食らった曹操軍はあっという間に逃げ出します。
後方の異変に気づいた夏侯惇は、救援に向かおうとしますが、先ほど逃げていったはずの趙雲が戻ってきて、背後から攻撃を仕掛け、夏侯惇は命からがら逃げ帰ります。
こうして、孔明の巧みな采配によって、曹操軍十万は、劉備軍五千にボロ負けしてしまいました。
華々しいデビューを飾った孔明ですが、実はこの話、三国演義の中の話で、実際の歴史書“三国志”には出てきません。これはフィクションだったようです。このように三国演義には多くのフィクションが含まれていますが、話の流れとして物語の中の出来事はぜひ覚えていただきたいと思います。
次回は「空城计-放火して逃げた孔明」と題して、物語の続きをお話したいと思います。

2008年05月31日

第二十六回−「城に放火して逃げた孔明」

諸葛亮の神懸り的な智謀によって曹操軍十万を撃退した劉備でしたが、敗戦の知らせを聞いて怒った曹操は、自ら百万人!もの兵士を引き連れ、劉備討伐へ乗り出します。
曹操は百万のうち十万の兵士を先陣部隊として派遣しました。大将は曹操の親戚での曹仁(そうじん)という武将でした。この曹仁という男、前回孔明にボロ負けした夏侯惇とは違い、勇猛でありながら冷静さも兼ね備えていた名将でした。
さて、今回は孔明はどんな作戦で十万の兵士を撃退するのでしょうか?
孔明は、今回は十万の兵士を撃退しても曹操の指揮する残り九十万の軍が来れば、五千程度の兵士ではとても防ぎきれないと考え、逃げるが勝ち!とばかりに、城を捨てて逃げることにします。
当時劉備は、以前にもお話したように、劉表という人物から、新野(しんや)という町(現在の河南省南陽市新野県)を借りていました。そこで新野を捨てて、劉表のいる襄陽(じょうよう)という都市(現在の湖北省襄樊市襄陽区)に逃げ込もうと考えました。
しかし、ただ逃げるだけはつまらないし、町には劉備を慕う農民たちがたくさんいました。そこで町に住む一般の人をすべて集めて川を渡って先に逃げるようにと命じます。
一方、関羽を呼び寄せこう言います。
「川の上流へ行って土嚢で堰を作り、水をせき止めよ。明日の夜中、下流で人や馬の騒ぐ声が聞こえたら、土嚢を切って水を一斉に流せ。」
また張飛にはこう言います。
「川の渡り場の近くに身を潜め、上流から一斉に水が流れてきて曹操軍が混乱したら一斉に攻めかかれ。」
そして最後に趙雲を呼び寄せこう言います。
「乾燥したわらをたくさん用意せよ。よく火がつくように硫黄と一緒に城の、西門、北門、南門に積め。明日の天気を予想すると夕方から風が強く吹き出すだろう。曹操軍は誰もいない城の中でくつろぐに違いない。その時、西、北、南門に火を放て。そうすれば東門から曹操軍は逃げ出してくるだろう。そこで逃げ出してきた曹操軍を討ち、頃合を見計らって関羽、張飛と合流し逃げてくるように。」
さて、そうとも知らない曹操軍は、誰もいなくなった新野の町を見て、今回は楽勝だと考え、ここらへんで一休みしようと、全軍は休み始めます。
ところが、突然火の手が上がり、十万の兵士は大混乱にハマってしまいます。門から逃げようとしてもすでに火の海。何とか東門から逃げようとするとそこには趙雲の指揮する劉備軍が待ち構えていました。
ボコボコにやられた曹操軍は、疲れたり火傷を負った体を休めようと、近くの川に向かいます。そこでリラックスしようとしたとたん、関羽が土嚢を切り、上流から洪水のような水が押し寄せて曹操軍を流し去ってしまいます。
やっとの思い出で川から脱出すると、そこには張飛が待ち受けていて、生き残った兵士は命からがら曹操の元に逃げ帰ります。
こうして、曹操対劉備の第二回戦も、孔明の鮮やかな指揮で、劉備軍の大勝利となります。
ところが襄陽に逃げこもうとした劉備に、とんでもないアクシデントが襲います。次回「“百万军中赵子龙”」と題してお送りします。

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