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2008年04月 アーカイブ

2008年04月01日

第九回-「水戸“黄門”-実は中国語?!」

“この紋所が目に入らぬか!”といえば“水戸黄門”ですが、おそらく日本で“水戸黄門”を知らない人はいないのではないでしょうか?
さて、“三国志”とは何の関係もなさそうな“水戸黄門”ですが、じつはこの“水戸黄門”という言葉の中に中国語が使われているのはご存知だったでしょうか?“水戸”は“茨城県”の旧名ですね、すると残る部分は“黄門”-そう、この“黄門”実は中国語なのです。
というわけで、今回は三国志の時代の中国の国家制度と日本の国家制度、三国志時代の地名現在の地名を、比較してご紹介したいと思います。少し難しい話になるかもしれませんが、最後までお付き合い下さいヾ(^-^;) ゴメンゴメン
日本の朝廷(天皇や公家)は、中国の唐の時代の朝廷に倣って大臣の職名や官位(階級)を決めました。“水戸黄門=水戸光圀”は日本での正式な官位は“中納言(ちゅうなごん)”、この“中納言”に該当する中国の位は“黄門侍郎”といいます。それで“水戸中納言”だった水戸光圀は“水戸黄門”と名乗ったわけです。
このように、中国の官位の名残は日本に大きな影響を及ぼしました。三国志の時代に使われていた言葉も、現在私たちが普通に使っている言葉に影響を与えています。たとえば・・・

丞相(cheng2xiang4:じょうしょう)
これは最高位の公務員で、現在の日本で言うと「内閣総理大臣」にあたります。今でも総理大臣のことを“首相”と呼びますね。なんで“首相”って呼ぶんだろうと思ったことはありませんか?辞書で確認してください。相(xiang4)は大臣という意味ですね。つまり首(第一位の)相(大臣)ということで「内閣総理大臣」は“首相”と呼ばれるわけです。外相、農水相、財務相、ほら、みんな“相”が付きますね。これは中国から来た言葉の名残なんです。次からニュースを見るときは“これは中国語なんだ~”って思いながら見てください。ちなみに三国志では“丞相”といえば“諸葛亮”のことですから、よく覚えてください。

一般的に、上記の丞相の下に“三公”という三人の大臣がいました。
司徒(si1tu2:しと)
現在の、「財務大臣」・「文部科学大臣」
司空(si1kong1:しくう)
現在の、「総務大臣」・「国土交通大臣」
太尉(tai4wei4:たいい)
最高の軍事責任者で、現在の「防衛大臣」に相当します。

さらに“三公”の下に“九卿”という役職がありました。
大司農(da4si1nong2:だいしのう)
現在の、「農林水産大臣」
廷尉(ting2wei4:ていい)
現在の、「法務大臣」
尚書令(shang4shu1ling4:しょうしょれい)
現在の、「官房長官」

ざっとこんなかんじです。

つづいては地名です。
下の表でご確認ください。

三国時代現在の省
幽州(ゆうしゅう)遼寧省


冀州(きしゅう)河北省


兖州(えんしゅう)河南省


豫州(よしゅう)河南省


青州(せいしゅう)山東省


并州(へいしゅう)山西省


徐州(じょしゅう)江蘇省


揚州(ようしゅう)浙江省江蘇省安徽省江西省
荊州(けいしゅう)湖南省湖北省

益州(えきしゅう)四川省雲南省貴州省重慶市
司隷(しれい)陝西省河南省

雍州(ようしゅう)甘粛省陝西省

涼州(りょうしゅう)甘粛省


この表の中に、吉林省、黒龍江省がありませんが、三国志の時代は、まだそこまで統治範囲が広がっていなかったようです。
今回は、すこし社会の勉強のようになってしまいましたが、これも三国志時代を理解するために必要かと思いますのでご了承くださいヾ(^-^;)
いよいよ次回から、三国志の物語を解説していきたいと思います。「桃の木の下の約束」と題して、物語の始まりをご紹介していきたいと思います。

2008年04月04日

第十回-「桃の木の下の約束」

今回から、三国演义に沿って、物語を解説していきたいと思います。

西暦180年ごろ、この世をはかなむ一人の青年がいました。性は劉、名は備、字は玄徳。そう、三国志の主人公、劉備玄徳です。当時の世の中は、だれも将来に希望がなく、怪しげな宗教団体が、人々を救うといいながら、暴力や略奪を繰り返している毎日でした。政府(漢帝国)もそんな世の中を正す力はなく、宗教団体の反乱(黄巾の乱)を抑えるのが精一杯でした。
 そんなある日、劉備は、立て看板を目にします。簡単に言うとこんなことが書いてありました。
 「今、世の中は乱れている!どげんとせんといかん!腕に自信のある人、役に立ちたいと思う人、臨時の公務員になってくれ!」
猫の手も借りたい政府からの募集広告でした。劉備は「早速応募しよう!」と思って眺めていたところ、後ろから男が声を出しました。劉備が振り返ると、髭を生やした大男が立っていました。男の容貌については原文を見てみましょう。こうあります。
「身长八尺,豹头环眼,燕颔虎须,声若巨雷,势如奔马。玄德见他形貌异常」
彼の性は張、名は飛、字は翼徳。この張飛も世を嘆いている一人でした。劉備と張飛は意気投合し、一緒に飲み屋に行きます。
 二人が飲んでいると、また別の大男が飲み屋に現れます。性は関、名は羽、字は雲長。やはり世を嘆く人でした。彼の容貌も原文で確認しましょう。
「身长九尺,髯长二尺;面如重枣,唇若涂脂;丹凤眼,卧蚕眉,相貌堂堂,威风凛凛。」
 すっかり仲良しになった三人は、「力をあわせてこの国を何とかしよう!」と言い合います。劉備は二人に、自分が漢の皇帝の末裔であることを告げます。関羽と張飛は、この劉備という人と一緒に世の中を変えて見せよう、と決意します。そこで彼らは義兄弟の約束を交わすことになりました。
 三人は、桃の木の下に祭壇を築き、動物を捧げて、天に誓います。
「三人力を合わせて、この世の苦しみから国民を救います!三人生まれた日は違うけど、死ぬときは一緒です!」
 こうして三国志の始まりとも言える“桃園の誓い”が結ばれます。
 この出来事に関連した歇后语をご紹介しましょう。
中文:「刘关张桃园三结义」→「生死之交」
日訳:「劉関張桃園の誓い」→「生死の交わり」
そのまんまですね( ̄- ̄)
 なにはともあれ、こうして三人は義兄弟となり、力を合わせて世の中を変えていくことになります。とはいうものの、何の権力もない三人、どうにもなりません。ところが、この関羽と張飛という二人の男、戦いには異常に強く、それぞれ“兵士一万に匹敵する”といわれるほどの豪傑だったので、各地で戦いを重ねていくうちに、三人の活躍は人の目を引くようになります。
 しかし、宗教団体の反乱を鎮圧した政府でしたが、政府の内部では混乱が起きていました。それは新しい英雄たちを生み出す一因ともなったのですが・・・
 物語の続きは後ほどとして、次回からは二回にわたり、劉備と義兄弟になった、関羽と張飛について、歇后语と成語を交えながら詳しく解説したいと思います。

2008年04月08日

第十一回-「关公吃酒」

今回は、三国志の中でも一、二を争う人気者、関羽についてお話したいと思います。

まずは関羽の成績表を見てみましょう。

 関羽  統率  武力  知力  政治  魅力 
 能力値     96     104       88       89       91   

Sanguo_nouryoku_11.jpg


  得意教科    社会    体育    -  


なかなか成績優秀のようですね~。なんといっても注目は統率と武力でしょう。関羽の率いる部隊は、非常に統率が取れていて、強かったために、戦う相手は、“関羽”と名前を聞くだけで戦う気をなくしたようです。しかし関羽は力だけではなく、知力や政治力も優れていました。彼の愛読書は春秋左氏伝、中国の歴史書です。
また、関羽は義理堅く人情があり約束を守る信頼できる人でした。部下をとてもいたわり、目下の人は関羽をとても慕っていたようです。しかし彼の欠点は、目上の人を軽く見るところだったといわれています。
みなさんは、“関羽”と聞いて顔を想像できますか?一般に関羽は赤みがかった顔をして、ひげがとっても長い人として知られています。日本では、横浜中華街に行くと関羽の像を見ることができますよ。今度中華街に行くことがあったら是非寄ってみてください。
関羽に待つわる成語や、歇后语はたくさんありますが、その見た目から取られた言葉も多くあります。いくつかご紹介しましょう。
关公吃酒(関羽が酒を飲む)→看不出来(見分けがつかない)
関羽の顔が赤かったことから来た歇后语です。もともと顔が赤かったため酒を飲んで酔っているのか見分けがつかない、ということのようです。
关公喝酒(関羽が酒を飲む)→不怕脸红(赤くなる心配なし)
これも関羽の顔が赤かったことから来た歇后语です。怒ったり、恥ずかしくなったりして顔が赤くなっても、もともと赤いからばれないよ、ということでしょうか?
关公照镜子(関羽が鏡を見る)→自觉脸红(赤くなっていると悟る)→恥を知る
よっぽど顔が赤かったんですね~
とどめはこれ、
关云长放屁(関羽が屁をこく)→不知脸红(恥知らず)
なんだかな~という言葉ですが、要は恥ずかしくなっても顔の色は変わらない(これ以上赤くならない)ということでしょうか?
今度は学識ある関羽を表す言葉を一つ。
关羽看《春秋》(関羽が『春秋』を読む)→一目了然(一目瞭然)
さきほどちらっと触れましたが、関羽の愛読書は春秋左氏伝、春秋のことなら何でも関羽に聞け、ということでしょうか。(看中文词典→一目了然)なんて言われたいものです。
では最後に関羽の武力を表す言葉を一つ。
关公面前耍大刀(関羽の前で刀を振るう)→自不量力(身の程知らず)
天下無双の関羽の前で、刀を振るうとは身の程知らずとしか言いようがありません。日本で言うところの“釈迦に説法”ですね。

と、まあざっとみてきましたが、関羽にまつわる成語はたくさんありますね。実はまだまだありますが、残りは物語の中で随時ご紹介していきたいと思います。
これだけ成語があるということは、人気者ということですから、皆さん“関羽”はぜひ覚えてくださいね。

次回は、三兄弟の末っ子、“張飛”に関する成語をご紹介していきたいと思います。

2008年04月11日

第十二回−「火」

今回は、劉備と関羽の弟、張飛についてお話したいと思います。

まずは張飛の成績表を見てみましょう。

 張飛  統率  武力  知力  政治  魅力 
 能力値     86     105       42       36       78   

Sanguo_nouryoku_12.jpg

  得意教科    体育    -    -  


あまり成績は良くないですね~。しかし彼の強みはなんと言っても武力でしょう。張飛は兄の関羽をも上回る武力を持っていました。それで戦いになるとその力を存分に発揮し、兄の関羽と同じように“兵士一万人に匹敵する”と言われました。
しかし彼の欠点は、気が短いこと。すぐにキレるので周りの人は大変だったでしょう。キレた張飛を止められるのは、劉備と関羽と諸葛亮だけでした。人間的には憎めない人なんですけどね~。
 ではそんな張飛にまつわる成語をご紹介しましょう。ハッキリいって、あまり使い道はなさそうですけど、一応・・・ヾ(^-^;) ゴメンゴメン

张飞烧火(張飛が火をつける)→やり過ぎる
張飛がキレると止められないことを表した言葉のようです。困ったもんです/(-_-)ヽコマッタァ
张飞卖豆腐(張飛が豆腐を売る)→品物が悪いのに売り手が威張っている様
張飛といえば、力を振り回して威張ってる、というイメージなんでしょうね~
张飞讨债(張飛が借金を取り立てる)→居丈高(人を威圧するような態度をとるさま)
うーん、張飛が借金の取り立てに来たら相当怖いですね~
张飞穿针(張飛が針に糸を通す)→表面は無鉄砲だが、その中にも注意深い所がある。
これは褒めてるんですかね~?けなしてるんですかね~?微妙な言葉です。
张飞使计谋(張飛が計略を使う)→荒っぽいようで細やかな所があるということ。
うん、きっと褒めてるんですね!
张飞吃豆芽(張飛がもやしを食べる)→用事や仕事が難なくできる様。
もやしなら誰でも食べれそうな気がしますが・・・

ざっとみてきましたが、張飛にまつわる成語はどれも微妙なものばかりですね~。
張飛に関しては好みが分かれるところだと思いますが、こういう表現方法もあるんだな、ぐらいに思っていただければいいと思います。

次回は、「三国一の美女を巡った男の争い」と題して、三国時代の初期の出来事をご紹介していきたいと思います。

2008年04月15日

第十三回−「人中有布,中有赤兔」

さて、また三国志の物語を進めていきましょう。予定と主題が変わってしまいました。ヾ(^-^;) ゴメンゴメン。
黄巾の乱を何とか抑えた漢帝国ですが、その支配力は弱まっていました。そんな時、帝国の実権を握っていたのは、大将軍の何進(かしん)という人物でした。この何進という男、もともとはただの肉屋さんだったのですが、妹が町でも有名な美人で、それが皇帝の耳に伝わり、妹は皇帝の奥さんに、何進は大将軍になったのでした。
しかし、しょせんは肉屋さん、急に大将軍になっても、能力を発揮することもなくただ威張ってるだけでした。
以前にもお話しましたが、当時、宦官たちも実権を握っていたので、宦官たちと何進はとても仲が悪かったのです。宦官からすれば、「何で肉屋のオヤジが偉そうに俺たちに指図するんだ!」というわけで、何進からすると「なんで宦官たちは俺の言うことを聞かないんだ!」というわけです。
堪忍袋の緒が切れた宦官たちは、何進の妹をかわいがっていた皇帝が亡くなったのをいいことに、何進をだまして暗殺してしまいます。しかし今度はそれに怒った何進の部下や、日ごろから宦官たちにいじめられている人たちが、宦官たちを皆殺しにしてしまいます。そんなわけで首都の洛陽は大混乱、ある者はどさくさにまぎれて、まだ幼い皇帝と皇帝の弟を連れて長安(現在の西安)に逃げようとします。
そんな時、皇帝たちを助け出したのが、董卓(とうたく)という人物でした。この董卓という男、体格がよく(ぽっちゃり系?)、でも動きは早く、しかも悪知恵働く、という厄介な人物でした。董卓は皇帝が幼いことをいいことに、皇帝をやめさせて、弟を皇帝にし、自分が実権を握ろうとたくらみます。
董卓はみんなに恐れられていたので誰も董卓の意見に反対できずにいました。しかし一人の人だけが堂々と反対を口にしました。丁原(ていげん)という人です。自分の意見を聞いてくれない人がいることに怒った董卓は、丁原を殺そうとします。しかし丁原のそばにはとても強いボディーガードがいました。ボディーガードの名は、呂布(りょふ)、丁原の養子でした。この呂布という男、三国志の中で最も強かった男といわれています。しかし性格は悪く、人を裏切ることをなんとも思わないおバカさんでした。
そこで董卓は、呂布を甘いエサで誘惑し自分の味方にしてしまおうと考えたわけです。そのエサは“馬”。“馬”は“馬”でもただの馬ではなく、赤兎馬(せきとば)という名馬で、武人なら一生に一度は乗ってみたいという、名馬でした。“この馬をあげるから、おまえのオヤジさんを殺してくれ”と頼みました。ふつうだったら断るところですが、単純な呂布はそれを引き受け、養父である丁原を殺してしまいます。それ以降、呂布は董卓のボディーガードとなり、董卓からすると、まさに“鬼に金棒”的な状態になったわけです。
しかし、董卓の横暴な政治に人々は怒り、董卓包囲網を作り出します。しかし呂布のあまりの強さに連戦連敗、打つ手が無くなっていくのでした。
続きは次回として、呂布にまつわる成語を一つご紹介しましょう。
人中有吕布,马中有赤兔
出典:三国志・魏書・呂布伝
意味:特に優れたもののたとえ
人の中では呂布、馬の中では赤兎馬、というわけで、特に優れたもののたとえです。人は誰も呂布にはかなわない、馬はどれも赤兎にはかなわない、というわけです。
悪知恵の働く“董卓”と、最強の男“呂布”、まさに最強タッグでしたが、しょせんは馬で釣った“呂布”、信頼関係はモロいものでした。
“呂布”の性格に目をつけた人物が、董卓と呂布を引き離す作戦を考え出しました。
次回は「三国一の美女を巡った男の争い」と題して、その作戦と結末をお話したいと思います。

2008年04月18日

第十四回−「三国一の美女を巡った男の争い」

前回お話したように、漢帝国の実権を握った董卓と、最強の男、呂布のコンビには誰もかなわないかに見えました。
しかし呂布の性格に目をつけた人物が、董卓と呂布を引き離す作戦を考え出しました。その人物とは漢帝国の司徒(財務大臣)だった王允(おういん)という人です。王允には一人の養女がいました。養女の名前は“貂蝉”(ちょうせん)、三国一の美女でした。
王允は、“貂蝉”を董卓と呂布で奪い合わせけんかをさせようと考えたのです。不幸な境遇の自分を養女として大切に育ててくれた王允の恩に報いようと、貂蝉はその役を買って出ます。
ある日、王允は呂布を宴会に招待します。王允といえば当時の財務大臣、呂布は喜んで宴会に出席します。その宴会で、美人の貂蝉が呂布にお酌をします。呂布は貂蝉に一目ぼれ、ぜひ妻にほしいと王允に頼み込みます。王允は喜んで、貂蝉を嫁として迎えてほしいと頼みます。
さて、今度は王允は董卓を宴会に招待します。王允は名門の家柄、董卓も喜んで宴会に出席します。その宴会で、今度は貂蝉は董卓にお酌をします。董卓も貂蝉に一目ぼれし、貂蝉を側室(そばめ)として迎えたいと王允に頼みます。王允はまたしても喜んで、側室として差し上げると請合います。こうして貂蝉は董卓の側室として迎えられることになりました。
さて、貂蝉が董卓の側室になったことを聞いた呂布は、かんかんに怒り、王允の家に殴りこみます。「俺の妻にくれるって言ったじゃないか!話が違う!喧嘩売っとんのか!」
王允はこう答えます。
「董卓様には、『この子は呂布様の妻になることが決まっている』といったのに、董卓様は強引にご自分の側室となさったのです」
これを聞いた単純な呂布は、怒りの矛先を董卓に向けます。それでも何とか我慢していた呂布ですが、董卓と貂蝉が仲良くしているのを見るたびにメラメラと怒りがこみ上げてきます。
今度は貂蝉が呂布に近づきます。
「私は呂布様の妻になりたいのです。なのに董卓様にいじめられています。早く助け出してください。」
いてもたってもいられない呂布は、董卓の目を盗んでは貂蝉と会い貂蝉を慰めようとします。
そんなある日、呂布と貂蝉が会っているのを董卓が目撃します。怒った董卓は呂布に向かってこう言います。
「主の側室に手を出してどうするつもりだ!」
こんなかんじで、美女の貂蝉を巡って、董卓と呂布は徐々に引き離されていきます。
頃合はよしとみた王允は、ついに行動を起こします。呂布に、董卓を殺すことを勧めます。董卓をおびき出すために皇帝の偽の手紙を準備します。
「皇帝の位を董卓に譲りたいので、一人で宮廷に来るように」
という命令でした。
手紙を見た董卓は喜んで呂布をボディーガードとして宮廷へ向かいます。しかし宮廷で待っていたのは皇帝ではなく、董卓を殺そうと待ち構えている武士でした。呂布に助けを求めた董卓でしたが呂布は董卓を裏切りとどめをさします。こうして非道な政治を行った董卓は無残な最期を遂げました。
呂布は喜んで貂蝉を妻に迎えます。しかし家に帰ってみると、なんと貂蝉は自殺していました。自分の任務を果たし終えた貂蝉は自ら命を絶ったのです。こうして貂蝉も悲しい最期を遂げたのです。
呂布はこれ以降、独立し独自の勢力争いを行うことになりました。しかし最終的には部下に裏切られ、曹操と劉備の連合軍に逮捕され処刑されてしまいます。
まさに裏切りに始まり裏切りで終わった人生でした。
さて、次回は「兄をたずねて三千里」と題してその後の出来事についてお話したいと思います。

2008年04月22日

第十五回−「兄をたずねて三千里」

さて、前回お話したように、呂布が董卓を殺したことによって、中国全土は再び勢力争いが始まりました。細かいやりとりはいろいろあるのですが、そこを突っ込むとマニアックになってしまうので、飛ばします!
各勢力の争いの中、呂布は曹操と劉備の連合軍に捕らえられ処刑されてしまいます。すると今度は曹操と劉備が敵対するようになります。
その戦いの途中、劉備の弟、関羽は劉備の妻たちを守る役を言いつけられていました。しかし曹操の巧みな指揮で劉備軍はボロ負けしてしまいます。関羽も劉備の妻共々曹操軍に包囲されてしまいました。
曹操は関羽の武勇にあこがれていたため、降伏して自分に仕えるようにといいます。しかし関羽は、劉備を裏切ることなどできない、と断ります。そしてなんと、破格の三つの条件を飲んでくれるなら一時的に降伏してもよいといいます。
その条件とは?

①曹操に降伏するのではなく、漢帝国に降伏する。
自分の兄、劉備の敵である曹操には絶対降伏しない、という意味です。
この関羽の言葉に由来する成語があります。

身在曹营心在汉(心ここにあらず)
自分は曹操の陣営にいるが、心は漢帝国にある、という意味です。

②劉備の妻たちやその付き人たちの命と生活の保障。しかもお給料付きで。
③今は劉備が行方不明となっているが、行方がわかり次第、すぐに劉備のところへ帰る。

以上の三つの条件を満たしてくれれば一時的に降伏してもよい、と言ったのです。ずいぶん大胆なお願いですね。
しかし曹操も太っ腹でした。この条件をすべて飲むことにしたのです。曹操は喜んで関羽を迎えて降参した敵、という扱いではなく、大切なお客さんとして扱うことにします。
こうして関羽は、曹操の客将となったのです。
曹操は関羽を迎えて以来、あの手この手を使って関羽の心や忠誠心を何とか自分に向かわせようとします。でも関羽の劉備に対する忠誠心はビクともしませんでした。
たくさんの金銀財宝を送っても、すべて劉備の妻たちに献上してしまい、たくさんの美女を送られても、劉備の妻たちの付き人としてしまうのでした。
次の曹操が贈ったのは、馬でした。馬は馬でも、ただの馬ではなく、前回の話で出てきた呂布が乗っていた、赤兎馬でした。このときばかりは関羽も大喜びし、喜んで受け取りました。曹操が、なぜそんなに喜ぶのか?と聞いたところ、関羽は「この馬があれば、劉備様の居所がわかったときすぐに劉備様のもとに駆けつけられるからです。」と答えます。
こうして関羽の忠誠心は、まったく揺るがないのでした。
そうこうしているうちに、関羽は劉備の居所を知るようになります。そこで彼は曹操に別れを告げ劉備の下へと急ぐのでした。
しかしその途中でいくつもの難関にぶつかります。
次回「过五关,斩六将」と題して、解説していきたいと思います。

2008年04月25日

第十六回−「五,六将」

劉備の居所を知った関羽は曹操に別れを告げ、一路、兄劉備の下へと急ぎます。しかし劉備の下へ行くには途中で五つの関所を突破しなければいけませんでした。曹操から何の知らせも受けていない関所の役人たちは、敵である関羽を通すわけには行かないと、関羽を捕らえようとします。
関羽はただ一人、劉備の奥さんを守りながら、ひたすら敵と戦い、襲い掛かる強敵を倒していきます。
そんな関羽の戦いぶりが成語になりました。
过关斩将
次々と襲い掛かる困難を克服する
関羽が役人を斬って関所を通過したことから生まれた成語です。また、こんな歇后语もあります。
过五关,斩六将(五関を破り六将を斬る)

所向无敌(向かうところ敵無し)
こうして、次々と難関を突破した関羽は、ついに劉備の下へとたどり着きます。劉備、関羽、張飛の三人は再会を喜び、再び三人で力を合わせて働こう!と思いを新たにします。
さて、再会した三人に新たな出会いがやってきます。
劉備の一行がある山道に差し掛かったとき、劉備を迎えるために出てきた山賊たちが命からがら劉備の下へ逃げてきます。関羽が山賊たちを問いただすと、彼らはこう答えます。
「劉備様をお迎えするため待っていると、一人の浪人が道で昼寝をしていました。道をどけ!と捕まえようとしましたが、全員でかかっても押さえつけることができず、かえって逃げ出してきたところです。あんなに力の強い人は見たことがありません!」
いったい誰だ?と怪しみながら劉備一行が道を進んでいくと、一人の男が道にひれ伏していました。劉備は彼を見るや「趙雲ではないか!」と叫びます。
この力の強い浪人は、“趙雲”という豪傑でした。以前劉備たちが、黄巾の乱を抑えるために戦っていたころ、協力して戦ったことのある人物でした。“趙雲”は別の人に仕えていましたが、自分が仕えるべき君主を捜すために、放浪の旅をしていたのでした。“趙雲”は、自分が仕えるのは“劉備”様しかいない、と思って劉備の一行を待っていたのでした。こうして、“趙雲”も仲間に加わり、劉備は戦力を蓄えていくのでした。
この“趙雲”という男、関羽、張飛に負けずとも劣らず、非常に強い人で、こうして劉備の下には当時の中国の力持ちトップ3が勢ぞろいしたわけです。
ここから三国志の物語は、劉備を中心として新たな展開を迎えていきます。諸葛孔明の登場ももうすぐですよ~
次回は少し視点をずらして「冢中枯骨」と題し、劉備と対決する前の曹操の様子について解説していきたいと思います。

2008年04月29日

第十七回−「冢中枯骨」

さて、無事劉備の下にたどり着いた関羽でしたが、関羽に見捨てられてしまった可哀相な曹操はというと、大きな問題に直面していました。
曹操の幼いころからの知り合いに、袁紹という人物がいました。袁紹は名門のおぼっちゃま、おぼっちゃま、という点では曹操と似てますね。そんな袁紹と曹操が、中国の覇権を巡って戦うことになったのです。
当時の袁紹の領地は、遼寧省・河北省・河南省・山西省という広い地域で兵力は40万人、対する曹操は河南省の一部のみの兵力は10万人ほど、明らかに袁紹が有利でした。
しかしこの袁紹という男、名門のおぼっちゃまで、頭はまあまあ良かったのですが、一つだけ大きな欠点がありました。それは優柔不断だったということです。
40万人の兵を指揮する立場にある人としては致命的な欠点でした。袁紹には優秀な部下がいて数々の優れた進言をしましたが、優柔不断な袁紹は、それらを受け入れられず、ズルズルと失敗を重ねていきます。
ついに、袁紹と曹操が直接戦うときがやってきました。“官渡の戦い”という三国志の中でも有名な戦いです。曹操は袁紹軍の兵糧倉庫に火をつけて敵を混乱させます。挟み撃ちに遭った袁紹軍はボロ負けしてしまいます。この戦いに勝利した曹操は遼寧省・河北省・河南省・山西省を支配下におさめ、一気に天下統一を近づけるのでした。
さて、袁紹の親戚に袁術という人物がいました。彼も名門のおぼっちゃま、でも評判は悪かったようです。彼にまつわる成語があります。それを見れば袁紹の性格もだいたい想像できると思います。

冢中枯骨
(塚の中は枯れた骨のみ)
能力のない人物の事を指す

(-ω-;)ウーン、ひどい言われようですね。
さらにこんなものもあります。

飞鹰走狗
(鷹を飛ばし犬を走らせる)
優雅に遊びに興じる、という意味

漢朝の名門に生まれた袁術の若かりし頃の逸話として、「若いころ、鷹を飛ばし犬を走らせ、狩りに興じた」とあるようです。
いずれにしても、せっかく良い家柄に生まれたのに、遊んでばかりで勉強はできなかったんですね。今だったら家庭教師をつけて私立大学に行けたかも知れませんが、当時は自分の能力だけが頼りの戦乱の世の中、曹操に滅ぼされてしまうのも当然かもしれません。
さて、なにはともあれ時代は進み、いよいよ曹操と劉備の直接対決となります。当時の劉備はどんな様子でしょう?
次回「もしかしてニート?劉備」と題してお送りします。

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