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2008年03月 アーカイブ

2008年03月05日

第一回「そもそも三国志って?」

皆さん、はじめまして、こんにちは。今週から面白三国志をお送りします。どうぞよろしくお願いします。
中国といえば三国志、三国志といえば中国、と言えるほどで、私も中国人の友人と三国志の話をすると必ず盛り上がります。しかし!日本人であまり歴史に興味がない人から言わせると「三国志」と言われても、ε-(―д―)ハァ という感じですよね?インターネットで三国志について調べても、マニアックなページばかり、初心者にはちょっと高いハードルかもしれませんね。
かくいう私は、中国語を学ぶ前から三国志のファンでしたので、中国語を学んでから「三国志」を知っいてよかったと思うことが良くあります。歇后语、成语などは三国志に由来するものがたくさんありますので、物語を知れば必ず中国語学習の役に立ちます!
というわけで、「三国志」を「面白く」「わかりやすく」「実用的に」ご紹介していきたいと思いますので、よろしくお願いします。
今日は、皆さんがきっと思うであろう「そもそも三国志って?」という質問にお答えしたいと思います。
まず「三国志」っていうのは、本当は中国の歴史書の名前なんです。扱われている期間は西暦180-280年の歴史です。日本で言うと邪馬台国とか卑弥呼とかの時代ですね。実は「三国志」に邪馬台国についての記述があるんです、さらっとですけどね。西の方では、ローマ帝国が最盛期だったころですね。キリストの死後、大体150年後というところでしょうか。
ということで「三国志」は歴史書なので、以上の時代の出来事を、同じ時代の歴史家「陳寿(ちんじゅ)」という人が西暦280-290年までに完成させた、正式な歴史の本です。
「三国志」は紀伝体つまり、時代順ではなく、国、人物ごとにまとめている様式で書かれています。「魏国志」30巻、「蜀国志」15巻、「呉国志」20巻、計65巻から成っている本です。
しかし、こんな難しそうな歴史の本を一般の人が読むはずもなく、まして私たちも読む気がしませんね~。そこで時代は進み西暦1600年代、中国は「明」の時代、日本でいうと江戸時代ですね、一般大衆向けの物語として登場したのが「三国志演義」という本です。この本は、歴史書「三国志」を元にして書かれた、物語で、大体は本当にあった話なんですが、いくらか“ありえない”物語も入っています。それで、中国人や私たち日本人が一般に言う「三国志」とは、歴史書「三国志」ではなく、物語「三国志演義」のことだったんですね~。
ちなみに、日本では「三国志」と言いますが、中国語では「三国志」(san1guo2zhi4)という言葉は、歴史書の方を指す言葉ですので、皆さん中国の友達に “「三国志」を読んだよ~”、というときは「三国演义」(san1guo2yan3yi4)と言ってくださいね。「我喜欢三国演义」この言い方が正解です。
みなさん、「そもそも三国志って?」わかっていただけましたか?(≧∇≦)ノ ハーイ♪
皆さんのご意見ご感想お待ちしています。また、皆さんのリクエストも随時受け付けますので、「もっとここが知りたい」「ここの意味がいまいちよくわからない」など、遠慮なくお知らせください。
では、次回は、物語の内容に迫っていきたいと思います。なぜ一つの国が「三国」になってしまったのでしょうか?「ことの始まりはカルト教団?」でお送りします。

第二回「ことの始まりはカルト教団?」

いつの時代も、世の中がおかしくなってくると、変な人や、怪しげな宗教が出てきますよね。最近は不景気ですから、違う方向に安らぎを見つけたいのかなぁ~?人間の気持ちなんて昔も今も一緒!日本も中国も一緒!
三国時代が始まる少し前、西暦184年、怪しげな宗教が出てきました。宗教名は「太平道」、教祖は「張角(ちょうかく)」という人です。この「張角」というイカサマおやじ、ウソかホントか、みんなの病気を治したんですね。そんなわけで、数十万というすごい数の人たちが信仰を持ってしまった!困ったもんです。
なにしろ、当時の世の中は、下々の人たちは苦しい生活をしているのに、上の人たちは悠々と生活している、まあ今の世の中と大して変わらないですね。
そしたら、この「張角」というオヤジ、調子に乗っちゃいまして、信徒たちを軍隊にして、当時中国を治めていた「後漢王朝」をブッつぶそう!としたわけです。この軍隊は、黄色い頭巾を目印にしたので、この反乱は「黄巾の乱」と呼ばれています。“赤ずきんちゃん”ならぬ“黄色ずきんオヤジ”です。ヽ(  ̄д ̄;)ノ エー!? 
が!しょせんは農民の集まり、「漢王朝」の軍隊にかなうはずもなく、一年もたたずに制圧されてしまい、「張角」は病死してしまうんですね。
しかし、その時「漢王朝」は中国を支配する力が弱まっていて、反乱は収めたものの、国を元通り立て直すことができなかったんです。さらに、「黄巾の乱」を抑えるために、地方の有力者たちに軍隊を出してもらったもんだから、今度はその地方の有力者たちが、のし上がってきます。
そもそも、当時「漢王朝」を仕切っていたのは「宦官」と呼ばれる人たち(男だけど“男”じゃない人たちですね)で、彼らは地方の有力者である「豪族」と仲が悪かったんです。でも「宦官」たちに軍の指揮はできないし、「宦官」たちはそもそも、家でゆっくりしてたーい、という人たちなので、反乱を抑えるためにしかたな~く、地方の有力者「豪族」たちにお願いして、悪者退治をしてもらったんです。
結局、「漢王朝」=「宦官」はその有力者たちのなすがままにするしかなく、今度はその有力者たち同士が、戦いを始めることになります。うーん、どうにも収拾がつかなくなってきた、/(-_-)ヽコマッタァってかんじです。
最後には、その有力者たちは三人に絞られます。それが、曹操、劉備、孫権の三人です。で、この三人がそれぞれ魏、蜀、呉の三国の基礎を据えるわけです。ざーーーーっと見てきましたけど、これが三国志のあらましなんですね。
まあ、実際には「黄巾の乱」が始まったのが西暦184年、三国になったのが西暦220年なので、大体40年くらいは、中国全土でバトルが繰り広げられてたわけですね。そこに、男のロマンがあるんです!
なにはともあれ、「三国志」のそもそもの始まりの原因は意外なところ、そう!「カルト教団」にあったわけです。歴史の影には宗教あり、といったところでしょうか。
今回は、ざっと、三国時代の夜明けとも言える時代を、要約してみました。お分かりいただけたでしょうか?
次回は、こんな暗い世の中で生まれた、今も使える成語とその由来についてお伝えしたいと思います。「登龙门-漢にまつわる故事成語」でお送りします。お楽しみに!

2008年03月10日

第三回「登龙门-漢にまつわる故事成語」

「登竜門[とうりゅうもん]」-皆さん意味はご存知ですか?そう!「立身出世の関門」、という意味ですね。よく若手芸人の登竜門、新人作家の登竜門、などと使われますね。この言葉、文字通りには「竜門を登る」と読めます。「登竜という門」ではありませんよ~。この「竜門」とは現在の山西省の黄河上流にある竜門山を切り開いてできた急流のことで、この急流を普通「鯉」は登りきれません。でもがんばって登りきるとなんと!「竜」になるという伝説があるのです。それが何で成語になるのか?それはですね~当時のある優秀な人物に関係があるのです。
「漢王朝」は当時ボロボロ、でも「李膺(りよう)」という優秀な人物がいました。「李膺」は諸悪の根源「宦官」たちの横暴に憤りこれを何とか正そうと試みる公明正大な人物で、「司隷校尉(しれいこうい)」という職(今で言うと東京都知事兼警視総監ですね、超エラ~イ人)に任じられるなど宮廷の実力者でした。非常にエラーイ人でしたが、曲がったことが大っ嫌い!いや~昨今の政治家に聞かせたいものです。当時「宦官」が腐った政治をしていた中にあって、彼の行動は若者たちの羨望の的でした。それで、「李膺」に認められることを「竜門」を登りきることにかけて、「李膺」に認められる事を「龍門に登る」と言いました。ここから、難関を突破して躍進の機会をつかむ事を「登龍門(龍門に登る)」と言うようになりました。
さて、もう一つご紹介したいのは「梁上君子[りょうじょうのくんし]」という成語です。意味はご存知ですか?なんと「どろぼう」のことです。なんで「どろぼう」なのに「君子」なの?というもっともなご意見もあると思いますが今からご説明しましょう。
先ほど出てきた「李膺」という人物の友人に「陳寔(ちんしょく)」という人物がいます。これまた立派な人格者でみんなに慕われていました。役人として訴訟を扱うときも、善悪を公正に判断して教え諭したために、「陳寔」の判決を怨む者はなく、人々は口々に「たとえ刑罰を加えられても、陳寔様にそしられる事がない方がよい」と言ったほどです。
そんな天下に名だたる人格者「陳寔」の家に泥棒が入り梁(はり)の上で身を潜めていました。ふつうだったら「なにしてんねん!おりてこんか!」と怒鳴るところですが、それに気づいた「陳寔」はなんと子供たちを呼び、梁の上のどろぼうに聞こえるようにこう言います。「人は、勤勉に働かなければだめだよ。悪人というのも、必ずしも元から悪かったのではなく、悪い習慣が身に付いてしまった結果の事なんだ。梁の上に潜んでいる方がそうなんだ」と言ったのです。どろぼうは驚いて、梁から下りて来くると、頭を地面にこすりつけて自らの罪を認めました。そこで「陳寔」はどろぼうにこう言いました。「あなたの様子を見ると、悪人というようでもない。自分の欲に打ち勝って善に立ち返りなさい。」そして、貧しくて困って盗みに入ったのだろうと言い、どろぼうにいくらかのものをあげました。これより後、「陳寔」の住む近くではどろぼうはいなくなったといいます。
いや~なんともいい話じゃないですか!皆さんどうですか?悪に悪を返さず、善をもって報いるとは、見倣いたいものです。
今日は「登龙门」「梁上君子」二つの成語を取り上げました。いつ使うの?というツッコミはご勘弁ください。ヾ(^-^;) ゴメンゴメン
次回はいよいよ、「超エリート集団-魏」と題して、三国一の大きく強かった、「魏帝国」の成り立ちと概要をご紹介したいと思います。

2008年03月13日

第四回「超エリート集団-魏帝国」

今回は、三国の中で最も大きかった「超エリート集団-魏帝国」についてお話したいと思います。第二回でさらっとでてきましたが、「漢王朝」の混乱の中、最後まで残った三人の実力者の一人が「曹操」です。彼が「魏」の基礎を据えました。
この「魏」という国、三国の中でも軍事力、経済力、人材どれをとってもずば抜けていて、正直なところこの「魏帝国」が天下統一してもいいくらいの国だったのです。まさに「超エリート」の集まり、優秀な人材をそろえて、資金もたくさんある“超一流企業”だったわけです。
“初代社長”は「曹操」字(あざな:大人になるとつけるもう一つの名前)は孟徳、名門曹家の出で、若くから将来有望とされてきました。沛(はい)国譙(しょう)県(現在の安徽省亳州市)の出身です。“いいとこのボッチャン”“成績優秀”う~ん、けしからん!ま、それはともかくとして、そんな「曹操」はメキメキと実力を発揮し、黄巾の乱平定に活躍します。その後も各地で起こる勢力争いに勝利を収め、西暦208年、残る敵は、劉備、孫権のみとなりました。
当時、曹操は中国の7割ほどを支配下におさめ、劉備はいまだに“浪人生活”、孫権は“実戦経験のないおぼっちゃま”、ということで誰の目にも曹操の勝利は明らかでした。しかし!三国志のなかで最も有名な戦い「赤壁の戦い」で曹操軍20万は孫権・劉備連合軍3万にボロ負けします。これによって中国は事実上三つに分割され曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀、にそれぞれ分かれていくことになります。
どうして“浪人”と“おぼっちゃま”が「赤壁の戦い」に勝てたのか?については、のちほど連載の途中で詳しく解説したいと思います。
さて、曹操は皇帝にはなっていません。死後その息子「曹丕(そうひ)」が「後漢」帝国最後の皇帝の禅譲(皇帝の位を譲ってもらうこと:ぶっちゃけた話「命だけは助けてやるから皇帝の位をよこしな!」という脅迫)によって「魏帝国」の初代皇帝になります。
 「魏帝国」の首都は「洛陽」現在の河南省洛陽市です。以下の地図をご覧ください。「魏帝国」の統治範囲の広さがわかります。「呉」とあまり変わりがないようですが、「呉」の領地はまだ未開発地域も多く経済力ではまったくかないません。それぞれの力関係を数字で表すと10のうち、魏は5、呉は3.5、蜀は1.5、まあこんなところではないでしょうか?
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領地は、現在の省で言うと、西から順に(甘粛省、陝西省、湖北省の北半分、河南省、河北省、山西省、山東省、遼寧省)といった具合です。ひろ~いですね♪⌒ヽ(*゜O゜)ノ スゴイッ!!!
三国の一つ「魏」についてお分かりいただけたでしょうか?
次回は、「“说到曹操,曹操就到”-噂をすれば…」と題して、魏の基礎を据えた曹操にまつわる故事成語についてお話したいと思います。

2008年03月18日

第五回「“说到曹操,曹操就到”-噂をすれば…」

今回は、“超エリート集団-魏帝国”の“初代社長”曹操にまつわる故事成語についてお話したいと思います。
まず初めに、筆者が独断と偏見で評価した曹操の能力値と“得意教科”を見てください。
魏の国 曹操孟徳君

 曹操  統率  武力  知力  政治  魅力 
 能力値     91       78       91       93       90   
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  得意教科    国語    社会    美術  


うーん、とっても優秀な生徒みたいですね~能力的には言うこと無し。
なぜ国語が得意かというと、彼は詩を作るのがとても上手。感情豊かな詩人だったのです。社会がとっても得意だったので彼の政治手腕はすばらしく支配した地域では商業や文化が栄えたみたいです。また美術も好きだったので、彼の国には優秀な美術家や文化人が集まりました。
一方、彼の欠点といえばクールすぎるところと冷酷なところのようです。そいうわけで、けっこういいところもあるんですが“三国演义”では主人公“劉備”との差を見せつけるために“曹操”は冷酷な悪役として描かれてしまっています。
それを物語るのが曹操にまつわる成語です。今日の主題にある“说到曹操,曹操就到”、皆さん聞いたり使ったことはありますか?日本のことわざで言えば“噂をすれば影”という意味です。曹操の話をすると曹操が現れる、つまりみんな曹操の悪口を言っていると本人にばれて殺されてしまうというわけです。実際、曹操を暗殺する計画が何度もあったのですが、全て事前に漏れて、計画した人は一族もろとも皆殺しにされています。
そんなわけで、彼の冷酷さや残虐性を表す歇后语がたくさんあります。(あ、“歇后语”ってなんだっけ?(゜~゜)ヾって方はKOTOMIでお勉強しましょう!)
「曹操转胎(曹操の生まれ変わり)」→「疑心重(疑い深い)」。
まあ自分が何度も暗殺されそうになれば疑い深くなるのも当然だとは思いますが・・・
「曹操杀人(曹操が人を殺す)」→「乱来一气(むちゃくちゃなことをする)」。
曹操が、お父さんを殺された報復として、徐州(現在の江蘇省徐州市)に侵攻し虐殺(人や動物皆殺し)を行ったことから。うーんここまでやっちゃうとこういわれても仕方がないことですね。
「曹操杀吕伯奢(曹操が呂伯奢を殺す)」→「将错就错(間違いを押し通す)」。
曹操が追っ手から逃げているとき、ある親切な家にかくまわれますが、その家族が曹操に食事を準備するとき、豚を捌くための刃物を研いでいたのを曹操が自分達を殺すためだと勘違いし、皆殺しにします。殺害の後、実は豚を捌くためだったことに気づいた曹操は後悔するものの身の危険から家を離れ、その途中、外に出ていて殺害を免れたその家の主人呂伯奢に出会った曹操は呂伯奢の口を塞ぐため呂伯奢も殺害してしまいます。一緒にいた陳宮という人は
「なんでこの人まで殺してしまったんだ!」
といいますが、曹操は
「この人が家に帰って家族が殺されているところを見たらかわいそうだ、だから悲しむ前に殺してあげた。」
と答えます。うーんまさに冷酷でどうしようもないですね。
「曹操杀华佗(曹操が華佗を殺す)」→「讳疾忌医(病気を隠して治療を嫌う)」。
頭痛に苦しむ曹操に当時の名医華佗が脳外科手術を提案しましたが、曹操は華佗が自分を殺害しようとしているものだと疑い殺害してしまいます。まさに“疑心重”!
とどめはこれです。
「阴险毒辣莫过于曹操(最高に陰険で悪辣なこと)」
曹操よりも陰険で悪辣な人!というすさまじいレッテル。みなさん覚えても使わないようにしましょう。
こうしてみると曹操は一つも良い所がなさそうですが、こんな歇后语もあります。
「曹操用人(曹操が人を用いる)」→「唯才是举(才能さえあれば良し)」。
曹操が人材募集に用いた標語です。才能さえあれば、いかなる人物であっても用いるという意味です。彼は身分にかかわりなく才能がある人を登用しました。
また、曹操の臨機応変さや統率力を物語る言葉として「望梅止渴」があります。意味は“空想で自分を慰める”転じて“その場しのぎで、実際には役立たない”です。曹操が軍隊を率いて水の無い場所を行進中に兵士たちが水を飲みたいと騒ぎ出したので、曹操が
「前方に梅林があって甘酸っぱい梅の実がいっぱい実ってるぞ!そこまでがんばれ!」
と言ったところ、兵士たちは唾が出て渇きを癒したという出来事から取られた言葉です。
今回は、曹操に関する成語をまとめてみました。実際に使いどころはなかなか見つけられそうもありませんが、三国志が中国語に大きな影響を与えているということをわかっていただければうれしいです。
次回は、「波乗りジョニー-呉」と題して、三国の一つ「呉帝国」についてお話したいと思います。

2008年03月21日

第六回「波乗りジョニー-呉」

今回は、「波乗りジョニー-呉」についてお話したいと思います。これまででご紹介したように「漢王朝」の混乱の中、最後まで残った三人の実力者の一人が「孫権(そんけん)」です。彼が「呉」を建国しました
孫権、字は仲謀、有名な軍略家“孫子”の子孫といわれています。もう一度この地図で確認してください。

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「呉帝国」の首都は「建業」現在の江蘇省南京市です。領地は、現在の省で言うと、(湖北省の南半分、湖南省、江西省、江蘇省、安徽省、浙江省、広東省、広西自治区)です。以前にもお話しましたが、領地は広いように見えますが未開発部分が多く、人口も魏に比べると少ないのでナンバー2といったところです。
この「呉」の人々の特徴はなんと言っても“波乗り上手”水の上での戦いなら絶対負けない、ということでしょう。このあたりは昔から、道といえば水路というほど水路が多く、小さいころから船に乗って生活しているので皆さん船の扱いや泳ぎがとってもうまいんです。
おかげで、第四回でチラッと触れた“赤壁の戦い”においては、たった三万の兵で、水上戦、いってみればホームグラウンドで、乗り込んできた完全アウエーの“魏”二十万に勝利します。
実は「呉帝国」は三国の中でも一番長生きで、滅亡が一番遅かったのですが、可哀想なことに三国志演義の中では、主人公の劉備の脇役的存在となってしまい、ハッキリ言って一番影が薄い国です。そのせいか、「呉」に由来する成語も極端に数が少なく、しかもその内容も、“劉備”や“蜀”に関係のある言葉ばかりです。追って少しずつ紹介していきたいと思います。
では、そんな“波乗り集団”のボスだった孫権について、独断と偏見で能力値と“得意教科”をご紹介したいと思います。

呉の国 孫権仲謀君

 孫権  統率  武力  知力  政治  魅力 
 能力値     86       71       82       88       96   

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  得意教科    体育(水泳)    -    -  

なるほど、けっこう能力値は高いようですね。彼の“魅力”に注目して下さい。96という高いスコアとなっています。彼は素直で人の言うことを良く聞き、部下の意見によく耳を傾けたといわれています。それで彼の下にはたくさんの優秀な人材が集まりました。それでこんな言葉があります。
「纳奇录异」
意味は「賢人志士を大事にして特異な人材をよく受け入れること」です。孫権に使えていた“周瑜”という人が、誰に仕官するか悩んでいた友人に
「孫権様は、賢者に親しみ立派な人物を尊重して、非凡な才能をもつ者たちを任用しています」
と、孫権を紹介したことからとられた言葉です。
得意教科は体育、といっても水泳だけですけどね。
存在が薄くてかわいそうだと思った方は、どうぞ「呉」のファンになってあげてください。よろしくお願いします。
次回は「アイドル集団-蜀」と題して、三国志の主人公的な国「蜀」についてお話したいと思います。

2008年03月25日

第七回「アイドル集団-蜀」

 今回は、三国志の主人公的な国“蜀帝国”についてお話したいと思います。なぜ主人公的な国かというと、初代皇帝が三国志の主人公だからです。劉備、字は玄徳、後漢王朝の前の王朝である前漢王朝の末裔といわれています。
物語としての三国志は、簡単に言ってしまうと、皇帝の子孫だった“劉備”が最終的には皇帝になるという話なのです。
しかし、なぜ“蜀”や“劉備”が人気があるかというと、彼の周りに才能豊かな“アイドル”たちがいたからです。まさに“蜀”は“アイドル集団”だったのです。
というのも、前回と前々回にご紹介したように、“魏”といえば“曹操”、“呉”といえば“孫権”というふうに皇帝の名前しか、パッと思い浮かばないと思いますが、“蜀”といえば“劉備”“諸葛亮”“関羽”“張飛”“趙雲”と有名な名前がすぐに出てくるわけです。皆さん中国の友人に質問してみてください。
「三国志で一番好きな人物は誰?」
って。おそらく、よほどの変わり者でなければ(@o@)、“蜀”の誰かを答えるでしょう。それほど人気があるんです。KOTOMIの中国語Q&Aに“趙雲”に関する質問があげられていましたが、のちほど“趙雲”については特集でお話したいと思います、というのも作者は登場人物では“趙雲”が二番目に好きなので・・・
目ざとい読者の方は、「あれ?たしか蜀って一番小さな国じゃなかったけ?」と思われるでしょう。そのとおり!“魏”帝国の回に説明したように、“蜀”は三国の中でも最も小さく弱い国だったのです。再度地図でご確認ください。

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 この地図を見ると、“蜀漢”と書かれていますが“蜀”のことです。小さいですね~「蜀帝国」の首都は「成都」現在の四川省成都市です。領地は、現在の省で言うと、(四川省、雲南省の北半分、重慶市)です。
“魏”と比べると本当に小さいのがよくわかりますね~あっと言う間に滅ぼされてしまいそうですが、大丈夫!“蜀”には天才的な軍師(戦いの作戦を決めたり、国の政策を決める人)である“諸葛亮”がいるからです。おそらく“諸葛亮”が三国志の中で最も人気のある人物ではないかとおもいます。かくいう作者も諸葛亮が一番好きです。
彼の知力によって、弱小“蜀”帝国が成り立ったといっても過言ではありません。“諸葛亮”を知らない中国人はモグリでしょう。それくらい有名なのです。
それで、三国志の前半の主人公は“劉備”、後半の主人公は“諸葛亮”と覚えてください。当然ながら“劉備”や“諸葛亮”にまつわる故事成語はたくさんあります。また機会を追ってご紹介しますのでお楽しみに。
では、ネタバレになりますが、“蜀”の成り立ち=三国志のあらすじ、を簡単にご紹介しましょう。
くどいようですが、“黄巾の乱”で支配力が弱くなっていた“後漢帝国”、そんな時、この世のありさまを嘆く一人の青年がいました。その名も“劉備”、三国志の物語はそこから始まります。が、いかんせん、金も力もない“劉備”、そんな時、劉備と同じく今の世の中を
「どげんとせんといかん!」
と思っていた二人の男が現れます。“関羽”と“張飛”です。三人はすぐに意気投合し“義兄弟”の約束を交わします。それ以来彼らは三人で行動するようになります。彼らは“黄巾の乱”の討伐のための政府の軍に協力し次第に有名になっていきます。なにしろ“関羽”と“張飛”はメチャメチャ強く、一人で兵士一万人に匹敵する、といわれるほどの豪傑だったのです。
やがて、“劉備”は皇帝に謁見する機会があり、自分が“前漢王朝”の子孫であることを皇帝に告げると、皇帝は家系図を持ってこさせてそれを確かめ、それ以後“劉備”は“劉皇叔”(りゅうこうしゅく:皇帝の叔父さん)と呼ばれるようになります。しかし、彼らは戦いには強いが、大局的な戦略を練るのは苦手、しかも劉備はお人よしだったので、なかなか自分の領土をもてません。せいぜい県令(今でいうと、市長)どまり。やがてライバルだった“曹操”は着実に勢力を伸ばし天下統一目前に迫るほどになります。しかも位は後漢帝国の丞相(今で言うと総理大臣)。
市長VS総理大臣、勝てるわけありません!
ところが、そんな時“劉備”は野に隠れた超天才のうわさを耳にします。その天才の名は、“諸葛亮”。“劉備”は三回も彼を訪ね、軍師として迎えます。それ以降“劉備”はメキメキと領土を拡大します。
当時は“劉備”は今で言う“村長”くらいの立場だったのに、その一年後の“赤壁の戦い”に勝利し、今で言う“県知事”になり、さらにその一年後、三つの県を治めるほどになり、その三年後“総理大臣”クラスになります。そして、最終的には“皇帝”となるわけです。
ざっと概観してみましたが、これが三国志の、そして“蜀”のあらましです。
次回は“劉備”にまつわる成語を「靴屋さん劉備-“刘备卖草鞋”」と題してお送りしたいと思います。

2008年03月28日

第八回-「靴屋さん劉備-“刘备卖草鞋”」

今回は、三国志の主人公劉備にまつわる故事成語についてお話したいと思います。
まず初めに、劉備の能力値と“得意教科”をご覧ください。

蜀の国 劉備玄徳君

 劉備  統率  武力  知力  政治  魅力 
 能力値     78       71       77       75      100  

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  得意教科    理科(生物)    家庭科    -  

何か気づきましたか?主人公の割にはパッとしない能力値ですね。そうなんです・・・実は主人公劉備、これといって才能があるわけでもなく、ずば抜けて頭が良かったわけではないんです。なのになぜ主人公なのか?それは彼には“魅力”があったからなんです。“魅力”はなんと100!最高の数値ですね。劉備は、この魅力のおかげで主人公となれた、つまり皇帝になれたというわけです。
 前回少し触れましたが、劉備はもともとは農民だったのです。だから畑のことはとっても詳しい、それで“理科”が得意のようです。といっても生物(もとい植物)だけですが・・・
 また、劉備はお母さんと二人暮し、家計を助けるために、蓆(むしろ)や靴を作って売って生活していました。だから“家庭科”も得意なんです。
 ではそんな劉備にまつわる故事成語をいくつかご紹介しましょう。
「刘备卖草鞋(liu2bei4mai4cao3xie2)」→「劉備が草履を売る」
なんのこっちゃ?という成語ですが、劉備は今でこそ皇帝という立場でえらそうだけど、もともとは靴を売って生計を立ててたんでしょ?という、ひがみ?がまじった成語です。
意味は「本業であること」です。劉備は靴を売ってるほうが似合ってるよ、ということなんでしょうか?
「刘备的江山(liu2bei4de・jiang1shan1)」→「劉備の江山」
意味は、「人の同情を買って成功すること」です。何でそんな意味になるの?という感じですが、ご説明しましょう。
「江山」とは直接は山河を意味しますが、別の意味もあります。皆さんご自分の中国語辞典でご確認ください。「国家または国家の支配権を指す」とあると思います。
「打江山(天下を取る)」「坐江山(政権を握る)」などの用例があります。
さて、先ほどご紹介したように、劉備の能力値は平凡、皇帝になれたのは“魅力”があったからだとご説明しましたが、この成語が見事にそれを表現しているんです。
つまり、劉備が皇帝になれたのは、彼に能力があったからではなく「人の同情を買って成功したからだ」というわけです。
 この言葉のとおり、劉備は、温厚な性格で腰が低く、しかもどうみてもキレ者にも見えなかったため、ライバルや敵たちからもあまり警戒されず、かえって敵からも同情されるありさま。魏の曹操は気性が荒く冷酷だったために、劉備は曹操と対照的に見られて以外にも成功したわけです。
 なにはともあれ、劉備に関する故事成語はどれも頼もしくないものばかり、これから先もいくつかご紹介すると思いますが失敗やおっちょこちょいな性格を現す成語がほとんどです。
 しかしこんな劉備が三国志の主人公であるとは・・・まさに「塞翁失马」ですね。あ、これは三国志には関係ない成語ですが、辞書で調べてくださいね。
 さて、次回は「水戸“黄門”-実は中国語?!」と題して、中国の、特に三国時代のお役所の様子をのぞいてみたいと思います。
 また、前回のブログ第七回にてご要望のあった、春秋戦国時代に劉邦に用いられた韓信についてですが、追って諸葛亮と対決させたいと思いますのでお楽しみに!

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