2009年03月10日

第九十回-「“势如破竹”-三国が一つに」

西暦263年、蜀が魏に滅ぼされ、265年には魏が晋に滅ぼされ、残る国は呉ただ一国になりました。
ちょうどその頃、呉では孫権の三男、孫晧(そんこう)が第四代皇帝となっていました。孫晧は皇帝になる前は優秀な人物と期待されていましたが、皇帝に即位すると豹変し暴君となります。その残虐さは曹操をも凌ぎ、三国志の登場人物の中で一番残酷な人物として最悪の評価を受けています。そんな呉でしたが、孫権以来の重臣、陸遜やその子、陸抗(りくこう)が衰退する呉を何とか支えていました。ところがその陸抗が亡くなると、呉にはもはや頼れる人物はいなくなりました。
晋はこのチャンスを見逃さず、20万という大軍を率いて呉に侵攻します。呉の武将は次々と降参し、晋の大群は呉の首都、建業(南京)に迫ります。
この時の晋軍のエピソードから取られた成語があります。日本でも良く使われている言葉なのでぜひ由来も覚えましょう!

成語:势如破竹
意味:向かうところ敵なし。破竹の勢い。
由来:晋の将軍・杜預(どよ)が呉を滅ぼそうとした時、(夏が近づいていたので)晋の重臣たちの中には、秋になってから攻めたらどうかといったが、それに対して杜預は「いま我が軍の威勢は大いに振るい、例えるならば竹を裂くかのような勢いがある。我が軍の侵攻を受けたなら、呉軍はすぐに潰えてしまうことだろう」といったことから。

こうしてついに西暦280年、呉は晋に滅ぼされ、ついに約100年間続いた三国時代は幕を下ろしたのでした。
一年にわたって三国志ブログをご愛読いただいてありがとうございました。今回三国志ブログを書いて、改めて三国志の奥深さと、三国志と中国語の関係を知ることができ筆者も大変勉強になりました。
皆さんには、少し難しいところや、わかりづらいところがあったかもしれませんが、最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました。
これを機に三国志を好きになっていただき、ひいては中国語の上達にもつながることを願っております。
好きこそ物の上手なれ、という言葉もあるとおり、言葉の学習は、まずその国の文化を学び歴史を学びその国とその国の人を好きになることだと思います。今回の三国志ブログが皆さんの一助となれば大変うれしく思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。


2009年02月24日

第八十九回-「“司马昭之心,路人皆知”-魏のその後」

蜀を滅ぼした魏では、孔明のライバルであった司馬懿の一族が権力を振るいます。魏が蜀を滅ぼす十年ほど前に司馬懿は亡くなっていますが、彼は生存中に大きくその権力を高めます。曹操が漢の皇帝よりも力があったように、司馬懿一族も魏の皇帝よりも力がありました。司馬懿の存在を快く思わない皇帝の一族は、司馬懿を亡き者にしようと計画を立てますが、かえって司馬懿にその計略を見抜かれ逆に殺されてしまいます。こうして、司馬懿が亡くなる前に、魏の実権は司馬懿とその息子たちに移ったのでした。
司馬懿がなくなると、息子の司馬師、司馬昭が後を継ぎます。司馬師は病のために早死にし、弟の司馬昭が実権を握ります。
司馬昭は部下の鍾会(しょうかい)鄧艾(とうがい)を魏に派遣し、蜀を滅ぼします。
この司馬昭に関する成語を一つご紹介しましょう。

成語:司马昭之心,路人皆知
意味:権力を狙う野心家の陰謀は誰でも知っている
由来:魏の皇帝・曹髦(そうぼう)が帝位を狙う大将軍・司馬昭(司馬懿の子・司馬炎の父)をののしっていった言葉。 ちなみに、この言葉は現在の中国では「顔に書いている」「みんなお見通し」「公然の秘密になっている陰謀」という意味で日常的に使用されているようです。 最近では、2008年3月30日、チベット騒動について中国の温家宝首相がこの表現を使いました。暗にダライ・ラマ14世を司馬昭になぞらえて非難したものといわれています。 実際によく使われるということですね。 権力を完全に掌握した司馬昭は西暦265年8月に亡くなりますが、後を継いだ司馬炎(しばえん)は同年12月に魏の皇帝を脅して退位させ、自ら皇帝となり、晋(しん)を建国します。 さて、いよいよ三国志もクライマックスがやってきました。次回、最後に残った呉帝国が晋に滅ぼされて三国は統一されます。 「“势如破竹”-三国が一つに」と題してお送りします。

2009年02月19日

第八十八回-「“乐不思蜀”-蜀のその後」

孔明亡き後、蜀の国は孔明が残していった財産ともいえる政策を引き継ぎ、しばらくは安泰を保ちます。
政治面では、蜀の四相と呼ばれた、蒋琬(しょうえん)、費袆(ひい)、董允(とういん)が孔明の跡を継いで蜀を立派に治めます。
彼らは自分たちの能力が孔明に及ばないことを悟って、実直に、公正な政治を行ったため蜀の国は安泰を保つことができたのでした。
軍事面では、孔明の片腕だった姜維(きょうい)が後を引き継ぎますが、やはり孔明には及ばず何度か魏と戦いますが決定的な勝利は収められずかえって反撃に遭い逃げ帰ることもありました。
そうこうしているうちに、蒋琬、費袆、董允が相次いで亡くなります。後に残ったのはどうしようもない政治家ばかりでした。
わけても黄皓(こうこう)という宦官が、皇帝劉禅に気に入られているのを良いことに政治に関与してきます。その一方で皇帝の劉禅は政治を黄皓に任せきりにして、占い師のいうことを信じたり、てんでメチャメチャな政治を行うようになります。そして次第に国は腐敗していくのでした。
姜維はただ一人勇気を持って劉禅に進言し、悪の根源である黄皓を処罰するように申し出ますが劉禅は耳を貸しません。かえって姜維をうらみ殺そうとします。身の危険を感じた姜維は、魏を倒すという名目で首都の成都から離れ、漢中で暮らすようになります。
こうなってくると、首都の王宮では、劉禅と黄皓が、政治をまったく顧みず遊びほうけていたため、不可救药な状態となっていきました。
ちょうどその頃、魏では司馬懿の子、司馬師、司馬昭が実権を握りひそかに蜀を狙っていました。蜀の国力が弱まったのを見て取った魏軍は、姜維の守る鉄壁の漢中を攻めないで、ウラ道を抜けて直接、首都の成都を急襲します。劉禅は何の抵抗をすることもなく、あっけなく降伏してしまいます。
こうして劉備の建国した蜀は西暦263年、魏によって滅ぼされたのでした。
このときに魏軍が攻撃に利用したウラ道に関係する成語をご紹介しましょう。

成語:明修栈道,暗渡陈仓
意味:表向きの行動で人の目を欺き、他の目的を狙う
由来:魏から蜀に侵攻するためには、いくつもの侵攻ルートがある。桟道とは崖に作られた通り道。陳倉とは蜀と魏の中間にある要地。陳倉から侵攻するには桟道を通る必要はない。つまり、桟道を築くと見せかけて陳倉に侵攻するということ。三国志にこの地名が登場するが、実際にはこの言葉は項羽と劉邦の戦いの際に生まれた言葉である。

さて、降伏した劉禅は魏の都、洛陽で余生を送ることとなります。その時のエピソードから生まれた成語があります。

成語:乐不思蜀
意味:楽しさのあまり帰るのを忘れる。楽しさのあまり、物事の本質を忘れる。
由来:蜀の劉禅が魏に降り、洛陽に移された後のこと、司馬昭は劉禅のために宴を催し、蜀の音楽を演奏させた。その場にいた蜀の降将達は皆、涙を流したが、劉禅だけはひとり楽しそうにしている。司馬昭が思わず「少しは蜀のことを思い出しますかな」とたずねると、劉禅は「ここは楽しくて、蜀を思い出すことなどありません」と答えた。

このようなおバカさんの皇帝では、どうしようもありません。蜀の滅亡も自明の理といったところでしょう。
三国志ではなくて二国志になってしまいました。
さて、次回は「“司马昭之心,路人皆知”-魏のその後」と題して、蜀を滅ぼした魏のその後についてお送りします。


2009年02月16日

第八十七回-「“诸葛亮会”-孔明会議」

知恵の代名詞ともいえる孔明も、ついに亡くなってしまいました。三国志の話はこの後も続くのですが、孔明が亡くなってからは、物語の主人公的な人物がいなくなってしまったため、内容にも物足りなさを感じます。
ということで今日はこれまでに紹介し切れなかった孔明にまつわる成語をご紹介しましょう。
まずは読んで字の如くですが、これ。

成語:诸葛亮会
意味:知恵を出し合う会議

(歇后语)事后诸葛亮→马后炮
事後によい方法や考えが思いつくこと→下種のあと知恵→後の祭り
なにかと知恵と結び付けられているようですね。 また、孔明の軍師としての才能と関係のある歇后语も多々あります。
(歇后语)诸葛亮当军师→名副其实/办法多
諸葛亮が軍師を担当する →名実相伴う/手段多し


(歇后语)诸葛亮的鹅毛扇→神妙莫测
諸葛亮の扇→神妙を極める

由来:諸葛亮が、どこへ行くにも扇でパタパタと扇ぎながら計略を生み出し、戦場でも扇で兵を指揮してしたことから。


(歇后语)诸葛亮的锦囊→用不完的计
諸葛亮の知恵袋→無尽蔵の計略

(歇后语)诸葛亮皱眉头→计上心来
諸葛孔明が眉間を寄せる→名案が浮かぶ
意味:諸葛亮ほど知恵のある人物であれば、少し考えを巡らせるだけで、すぐに妙案が浮かぶという様を例えたもの。 あとは、直接孔明に由来しているわけではないのですが、物語で出てくる単語もあります。
慧眼
物事の認識が広くて深いこと
こう呼ばれたいものですね。 と、このように孔明は今でも中国で絶大な人気を誇っています。皆さん是非覚えてください! では次回は「“乐不思蜀”-蜀のその後」と題して、孔明亡き後の蜀の様子と滅亡までをお伝えします。


2009年02月13日

第八十六回-「“死诸葛走生仲达”」

孔明の死を受けて、姜維は早速撤退の準備に取り掛かります。蜀軍の陣地がにわかに騒がしくなったのを見て取った司馬懿は、部下の夏侯覇(かこうは)に一軍を率いて蜀の陣地を偵察してくるように命じます。
夏侯覇は馬も乗りつぶすばかり鞭を打ち続けてかえってきます。待ちかねていた司馬懿は、夏侯覇の姿を見るや否や“蜀の陣地はどんな様子だったか?”と尋ねます。
夏侯覇は答えて言います。
“どうも変です。ひそかに撤退の準備をしているようです!”
“やっぱり!そうか!”
司馬懿はこの時とばかり、全軍に出撃命令を出します。
“孔明のいなくなった蜀軍はこれを攻めつぶすのも自由自在だ!”
これまでは孔明の挑発に乗らずひたすら我慢していた魏の軍勢は、堰を切った流れのように、一斉に蜀の陣地に向かって突撃します。
なかでも大将の司馬懿は、自ら陣地の先頭に立ち、全軍を引き連れて五丈原の蜀陣に向かいます。
五丈原の蜀陣に近づいてみると、やはり蜀の兵は一人もいません。
今や孔明の死を確信した仲達は、撤退を開始した蜀軍を後ろから攻撃しようと、猛攻撃の開始を準備します。
ところが、一方の山間から闘志溌剌な鬨の声が鳴り響きます。
“蜀軍ここにあり!”という声が聞こえたかと思うと、蜀の将軍たちが、孔明の乗った四輪車を押してこちらに向かってくるではありませんか!
死んだとばかり思っていた孔明が、四輪車に乗って、しかもその車を取り囲む将軍たちの顔は闘志に満ち溢れていて、とても孔明が死んで悲しんでいるようには見えません。もちろんこの孔明は、本物ではなく、よく似せて作った木像なのですが、遠目からではそこまでの判断がつきません。
司馬懿はビックリ仰天して絶叫します。
“またも騙された!孔明はまだ死んでいない。全軍退却!”
司馬懿の狼狽ぶりを見た蜀の姜維は、今がチャンスとばかり、全軍に突撃命令を出します。
“司馬懿、なぜ逃げるのか!せっかく出てきたのに、戦わないまま退却するとはどういうことだ!”
大将の司馬懿は、驚きのあまり、我先にと馬を返し退却を始めます。大将の司馬懿が我先に逃げ出したばかりか、諸大将たちも“孔明は生きている!”“孔明なお在り!”と周章狼狽して我先に馬を返したので、馬と馬はぶつかり合い、兵は兵を踏み潰し、魏軍は大混乱に陥ります。
姜維率いる蜀軍はこれに追撃を加えて大打撃を与えます。
司馬懿は後ろを振り返らず、ひたすら逃げまくりました。
蜀軍の追撃が止んだようなので、司馬懿は落ち着きを取り戻し、もう一度蜀の陣地に引き返します。そこには一人の蜀兵もいませんでした。
司馬懿はこのときになって初めて、孔明が本物ではなく木像であったことを聞かされます。改めて孔明の智謀に感服します。
そして孔明が遺していった蜀の陣地跡を見ると、整然と整備されていて孔明の智謀の跡が伺われます。
司馬懿は一人、孔明を偲びながらこうつぶやいたといわれています。
“まことに彼は天下の奇才。おそらくこの地上に再び彼のような人物を見ることはもうあるまい。”
こうして孔明と司馬懿のライバル対決は終わりを迎えたのでした。

“死诸葛走生仲达”
意味:優れた人物は、その死後もなお生前の威力が残っていて、生きている者を怖れさせるものである。
由来:五丈原の戦いで諸葛亮が陣没した。蜀軍が退却したので、魏の司馬懿仲達は追撃を開始した。しかし、蜀軍が退却を中止し迎え撃つ構えを見せたので、司馬懿は諸葛亮の策略かと思い退却したことによる。
次回は「“诸葛亮会”-孔明会議」と題して、孔明にまつわる故事成語を一挙にご紹介します。

2009年02月08日

第八十五回-「孔明最後の時」

どんなに頭が良い人でも、決して解決できない問題があります。それは死、です。孔明も例外ではありませんでした。
三国随一の知能を持つ孔明にも死が近づいてきました。孔明は自分がいつ亡くなってもいいように、自分の木像を作らせます。あたかも自分が生きているように見せかけるためです。
孔明の死が近いことを悟った司馬懿仲達は、配下の武将に一軍を率いさせ蜀軍を攻撃させます。しかし、病の床に付していた孔明は、蜀軍随一の猛将、魏延(ぎえん)に、魏軍を蹴散らすように命令します。
蜀軍の思わぬ攻撃にあった魏軍は、あっさりと退却します。まだ孔明が生きていることを確信したからです。
自分の死を悟った孔明は、片腕とも言える姜維(きょうい)という武将を枕頭に呼び、自分が亡くなった後の、軍の撤退の手はずを指示します。そして、孔明が書いた、兵法書を姜維に託します。この兵法書は兵法二十四篇というもので、残念ながら今は無くなっていますが、これを基にして書かれたという中国の兵法書は数多く見られるそうです。
さらに、後任の人事も姜維に指示します。
当時、蜀には諸葛亮を含め、四人の有能な人物がいました。
諸葛亮、蒋琬(しょうえん)、費袆(ひい)、董允(とういん)という四人で、蜀の四相と呼ばれています。
下は四川省綿陽市にある蜀の四相の銅像です。


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孔明は自分の亡き後は、蒋琬が宰相職を引き継ぐように遺言します。みなで力をあわせて蜀の国を盛り上げて行くようにと指示します。
すべての言葉を言い終えると、安心したのか静かに息を引き取ります。
時は西暦二三四年八月二十三日、五十四歳でした。
軍事の一切を引き継いだ姜維は早速、撤退の準備をします。
次回「“死诸葛走生仲达”」と題してお送りします。

2009年02月04日

第八十四回-「プレゼントはワンピース」

魏軍に決定的な勝利を収めることができずにいた孔明は、次第にあせってきました。というのも最近体調がすこぶる悪くなったからです。
目まいがしたり、血を吐いたりすることが多くなったようです。自分の死期が近いことを悟った孔明は、なんとか自分が生きている間に魏軍と決着を付けたいと思い、仲達を挑発します。
その方法は仲達にあるプレゼントを贈ることでした。そのプレゼントとは、今で言う“ワンピース”と“ヘアバンド”でした。若い女性が着る服と身につけるアクセサリーをプレゼントしたのです。そして手紙にはこう書きました。
“史上まれにみる大軍を抱えながら、まったく勝負をしないとは、お前は女の子なのか?男ならば潔く勝負しろ!”
という内容でした。
仲達は怒りで身を震わせますが、ここで怒っては孔明を喜ばせるだけだと考え、グッとこらえます。そして、プレゼントを持ってきた使者に孔明の様子について尋ねます。
孔明の様子を聞いた仲達は、孔明の死期が近いことを見抜き、後もう少し我慢しようと決心します。
こうして、孔明の策略はまたしても仲達を挑発することはできませんでした。仲達は孔明がいるうちは戦っても必ず負ける、と考え辛抱に辛抱を重ねたのです。
ついに孔明の死が迫ってきました。孔明の命は、あと数日しかありません。
次回「孔明最後の時」と題してお送りします。

2009年01月26日

第八十三回-「孔明の時限爆弾」

戦えばいつも仲達に勝つ孔明でしたが、仲達率いる魏軍にとどめを刺すことはできないでいました。大将の仲達さえいなくなれば、たとえ魏が大国でも必ず勝てる、と孔明は考えていました。
そこで孔明は時限爆弾作戦を考えます。
といってもパソコンも何も無い時代にホンモノの時限爆弾を作れるわけはありませんが、部下を集めて、山に囲まれた盆地に、なにやら大掛かりな施設を作ります。実はこの施設は大きな爆弾工場で、至る所に爆発の原因となる、硫黄や煙硝を隠し、導線などを張り巡らした大きな爆弾装置でした。
この中に司馬懿と魏軍を誘い出し、一気に爆発させてしまおう、という作戦です。
まず、孔明は部下に魏軍に戦いを挑み、わざと負けて逃げてくるように、と命令します。
蜀軍があまりに簡単に負けるので、司馬懿もはじめはなにかウラがあるのではないかと疑っていましたが、戦っては必ず勝つので、次第に、ウラがあるのも忘れ、蜀軍が弱くなったのだ、と思い込み、ついに全軍を率いて出撃します。
この動きを見ていた孔明は、かねてからの作戦通り、部下に命じて、爆弾装置のある盆地へ司馬懿を誘導します。
そうとは知らない、司馬懿と魏軍は、爆弾装置のある盆地にすっかり誘い込まれてしまいます。
魏軍が全員盆地に入ったのを見届けた孔明は、起爆装置を作動させ、盆地を火の海にします。
あっという間に、盆地は火の海となり、魏軍の大半は焼け死んでしまいます。
司馬懿も焼き殺されるところでしたが、にわかに大雨が降ってきて、あたり一面火が全て消えてしまいます。
なんとか命を保った司馬懿ですが、この戦いで魏軍が失った損害は、物的にも精神的にも、開戦依頼最大のものでした。
しかし、この戦果を見ても、なお蜀軍のうちにはただ一人、やり切れぬ思いをしていた人がいました。ほかならぬ孔明です。
司馬懿を捕捉して、今日こそは、と必殺の思いで考え出した時限爆弾も、突然の大雨で一瞬にして水泡に帰してしまったのです。

谋事在人,成事在天”
“事を謀るは人にあり、事を成すは天にあり”

孔明はこうつぶやいたと言われています。
さて、次回は「プレゼントはワンピース」と題してお送りします。

2009年01月24日

第八十二回-「孔明と仲達の直接対決!」

お互いにその実力を認め合う孔明と仲達が直接対決するのは今回が初めてです。仲達は孔明のウラを掻こうと必死に作戦を練りますが、そのたびに孔明にウラのウラを掻かれて作戦は失敗に終わります。
ある時、仲達と孔明は、二人で陣頭に立ち、どちらが軍の指揮を執るのにふさわしいか競います。仲達は「陣立て競争で戦おう」と持ちかけます。
“陣立て競争”とは、対象の掛け声一つで軍隊にある陣形をとらせたり、別の陣形に変えさせたりして、その速さと美しさを競うものです。
孔明が指揮を執り、奇妙な陣地を作り上げます。
“この陣地の名前を知っているか?”と孔明は仲達に問いかけます。
“それは八卦(はっけ)の陣だ!”と仲達は答えます。
八卦の陣とは、陣地に八つの門があるもので、八つの門の名前は、休、生、傷、杜、景、死、驚、開、といって、休、生、開、の三つの門から入れば、陣地を乱すことができるが、それ以外の五つの門から入ると、二度と出てこれない、という陣地でした。
どの門が、休、生、開、の三つの門なのかは、陣地を組んだ大将にしかわからないので、敵方がこれを破るには相当の観察力が求められるというわけです。
仲達は自信満々に、三つのもんを指し示し、あの三つの門から突撃すれば、蜀軍は壊乱するに違いないと、部下に軍を預けて突撃させます。
ところが、孔明の手にある羽扇が揺れるたびに、蜀軍の陣地は不思議な変化が起きて、突撃した魏軍は周りを囲まれてしまい、降参するしかないような状態になってしまったのでした。
孔明は捕虜を快く解き放ち、仲達にこう伝えさせます。
“このような中途半端な戦いしか知らないようでは、到底蜀軍には勝てないぞ!”
この言葉を聞いた仲達は、烈火のごとく怒り、全軍を出撃させますが、事前に孔明の指示を受けていた蜀軍の別働隊は、背後から魏軍に襲いかかり、仲達は命からがら逃げ帰るはめになったのです。
それでは今回の仲達の負け方を表す成語を一つ・・・

成語:一败涂地)
意味:再び立ち上がれない程ひどく負ける。

さて、次回は「孔明の時限爆弾」と題してお送りします。

2009年01月20日

第八十一回-「みんな感動!後・出師の表」

先にご紹介したように孔明の、打倒・魏!の目標は、馬謖の大失敗によって達成できずにいました。蜀に帰った孔明は、国の力を蓄えるために、三年間、国を富ませることに努めます。孔明の手腕によって三年の間に、蜀の国力は回復します。
それで孔明は、再度“出師の表”を皇帝劉禅に奏上し再び魏に向けて出発します。
今日はその“後・出師の表”の内容をご紹介します。

先帝慮漢賊不両立 王業不偏安 故託臣以討賊也
以先帝之明 量臣之才 故知臣伐賊才弱敵彊也
然不伐賊 王業亦亡
惟坐而待亡 孰与伐之
是故託臣而弗疑也
先帝におかれては、漢皇室と賊(魏)とが両立することはできず、天下統一の大事業達成のためには西南にいつまでも安住しているべきではないと考えられ、わたくしに賊徒討伐を委託されました。
英明なる先帝はわたくしの才能をはかられ、わたくしに強大な賊を討つに足る才能の無いことをつとにご承知ではありましたが、賊を討たない限り天下統一の大業も成らず、座して滅亡を待つよりは、賊を討つよりは、賊を討つにしくはないので、ためらうことなくわたくしに賊徒討伐を委任されたのであります。

臣受命之日 寝不安席 食不甘味
思惟北征 宜先入南
故五月渡濾 深入不毛 併日而食
臣非不自惜也
顧王業不可偏全於蜀都 故冒危難以奉先帝之遺意
而議者謂為非計
私は先帝の遺命をお受けして以来、寝食を忘れて北伐の計画を練ってましたが、それにはまず南方を平定すべきであると、5月、濾水を渡って深く熱病・不毛の地に入り、2日の兵糧を2日で食べるという苦労を致しました。
私は決して自らの生命を粗末にするものではありません。
天下統一の大事業の為には、蜀(成都)という奥地に安住しているべきではないと考えたからで、それゆえに危難を冒して先帝のご遺志を遂行しようとしているのにほかなりません。
こうして、孔明は決意も新たに魏の征伐に出陣するのでした。
さて、次回はいよいよ孔明と仲達が直接対決をします。「孔明と仲達の直接対決!」と題してお送りします。

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